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松平重富・一橋治済の兄弟による酒井忠休・忠崇の馬鹿親子に対する「洗脳(マインドコントロール)」
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岩本正利は若年寄筆頭の酒井忠休の上屋敷を辞去すると、目と鼻の先の福井藩上屋敷へと足を伸ばした。
正利は一橋治済を介して、治済の実兄に当たる福井藩主の松平越前守重富とも親しくしていた。
それ故、福井藩の江戸詰の家臣も正利の存在は把握しており、正利が藩邸の門前に到着し、門番所にて身分を明かした上で来意を告げるや、直ぐに用人の宇都宮勘解由が門番所へと飛んで来て、主・重富の許へと正利を案内した。
こうして正利は重富に面会を果たすと、これまでの経緯、もとい治済の「計略」を伝えた上で、明日、明後日の2日間、まずは忠崇が父・忠休よりも先にここ、福井藩上屋敷を訪れるので、重富にはその忠崇の相手をしてやって欲しいと頼んだのであった。
その際、正利は忠崇への接遇の段取り、具体的にはその「台本」についても重富に詳しく伝え、それに対して重富も「委細承知」と応じたのであった。
果たしてその翌日の1月10日、忠崇は早くも昼四つ(午前10時頃)に福井藩の上屋敷を訪れた。
藩邸内には既に話が通じていたので、忠崇は重富の待つ茶室へと案内された。
その茶室には重富の外にも嫡子の伊豫守治好の姿があった。
忠崇は治好とは面識はなかったものの、その風体―、前髪こそ落としてはいたものの、未だ少年の面影を残しているにもかかわらず、重富の隣に陪席を許されている当たり、
「よもや…」
重富の嫡子ではあるまいかと、忠崇はそう当たりを付けた。
事実、その通りであり、
「大學頭殿とは確か、初めてでござったな…」
重富は息・治好が忠崇とは初対面であったなと、そこで治好に対して忠崇に挨拶するよう命じた。
「松平伊豫守治好です」
治好はそう名乗ると、忠崇に会釈程度だが、それでも頭を下げたので、忠崇を大いに慌てさせたものである。
それと言うのも治好の官位は従四位上侍従と恐ろしく高く、未だ朝散太夫、従五位下諸太夫に過ぎぬ忠崇よりも遥かに高い。
いや、忠崇だけではない。老中よりも「一段階」だけだが高いものであった。老中の官位はそれよりも「一段階」下の従四位下侍従であるからだ。
忠崇は未だ、菊間詰ではなく、つまりは御城への登城が許されぬ身ではあったが、それでも松平治好が去年の天明3(1783)年9月に元服し、将軍・家治への初めての御目見得が許されたと同時に、従四位上侍従に叙されたことは把握していたので、忠崇はその治好の会釈を受けて慌てて治好に平伏すると、
「酒井大學頭忠崇でござりまする…」
まるで将軍に対するかの様にして自己紹介した。
確かに治好は忠崇よりも遥かに格上ではあるものの、しかしそれでも平伏はいき過ぎというものであった。治好は将軍ではないからだ。
忠崇のその余りに見苦しい有様に重富も流石に苦笑させられ、
「大學頭殿、左様に畏まられずとも良い…」
重富は未だ平伏、畳に額を擦り付けている忠崇にそう声を掛けて頭を上げる様、促したのであった。
それで忠崇も漸くに頭を上げたものの、しかし今度は改めて重富を目の当たりにして再び、今度は重富に対して平伏しようとしたので、そうと察した重富が忠崇を制した。
忠崇は重富とも面識はなかったものの、しかしそれまでの経緯から、殊に治好に忠崇へと挨拶するよう命じた辺りから、重富であると容易に察せられた。
そしてこの重富の官位は治好以上に高く、「従四位上少将」というものであった。
忠崇が重富に対しても平伏しようとしたのも無理はない。
だが重富としては、それはひいては治済にも当て嵌まることだが、忠崇を屈服させる為に、その父・忠休よりも先にここ福井藩上屋敷へと招いた訳ではない。
重富は己にまで平伏しようとした忠崇を制すると、息・治好に目配せして、治好を茶室より退出させた。
こうして茶室にて重富は忠崇と二人きりになったところで、忠崇の為に茶を点てた。
「頂戴仕りまする…」
忠崇は重富より差出された茶を飲乾すと、今度は茶菓子まで勧められたので、忠崇は茶菓子も頂戴した。
「いや、大學頭殿とは初めてだが…、こうして逢うてみると、中々の男振りよのう…」
重富は目を細めて忠崇をそう誉めそやした。
「大學頭殿…、いや、忠崇殿と呼んでも良いかのう…」
諱でもって距離を縮める―、それは重富・治済兄弟の「手口」と言えた。
それに対して忠崇はそうとは気付かず、それどころか、
「忠崇で結構でござりまする…」
呼捨てにしてくれて構わないと、重富に「逆提案」する始末であり、どうやらすっかり重富の「術中」に嵌まったものと見える。
「されば忠崇よ…、そなた程の見所のある…、将来、有望なる男が未だ、菊間に詰められぬとは信じられぬ…」
重富は如何にも不思議そうに装いつつ、そう疑問を呈すると、
「されば一刻も早くに忠崇が菊間に詰められるよう、この重富も微力ではあるが力を致そうぞ…」
忠崇にそう「助力」を約束したのであった。
するとこれには忠崇も驚き、「えっ?越前守様が?」と問返した。
「左様…、さればこの重富は大廊下詰にて…、と申しても下之部屋詰ではあるが、直ぐ隣の上之部屋には御三家が詰めているによって…」
御三家に忠崇を推挙しよう―、重富は忠崇にそう示唆したのであった。
忠崇が喜んだのは、それも狂喜乱舞したのは言うまでもなく、忠崇は今度こそ重富に平伏したものであった。
「いやいや、忠崇よ…、吾等の様な大廊下詰は平日登城は許されてはおらず、この重富が次に登城せしは15日の月次の拝賀ぞ…」
つまり15日にならなければ御三家に忠崇を推挙してはやれないと、重富は忠崇にそう告げていたのだ。
一方、忠崇もその程度のことは承知しており、重富が己を認めてくれただけでも十分であった。
重富はそれから忠崇とは、とりとめのない雑談に興じて、その日の面会を終えた。
だが翌日の1月11日ともなると、些か様相が異なった。
この日もまた、忠崇は昼四つ(午前10時頃)に福井藩上屋敷を訪れると、重富は今日は忠崇を見晴らしの良い庭へと案内し、池に面した御影石による「ガーデンテーブル」に腰掛けた。
重富は池に視線を送りつつ、「昨日、あれから色々と考えたのだがのう…」と切出した。
「忠崇が本来なれば今頃は既に、菊間の本間に出られても良さそうなところ…、否、然るべきであるにもかかわらず、それが未だ、叶わぬとは…、これはもしや、田沼親子の陰謀ではないか、とな…」
「何と…」
「されば考えてもみよ…、忠崇を除いて、そなたと同じく、若年寄を父に持つ者は皆、菊間の本間に出でておるぞ…、太田備後守資愛が息・采女正資武、加納遠江守久堅が息・備中守久周、米倉丹後守昌晴が息・長門守昌賢…、この3人は皆、そなたと同じく父が若年寄を勤めしによって菊間の本間に出でておる」
確かに重富の言う通りであった。
「これで百歩譲って、この3人が忠崇よりも年長であるならば…、つまりは忠崇が3人に較べて未だ若年であり、それ故、元服を済ませて上様への初御目見得を済ませたとは申せ、半役人としての勤めは果たせずと、それならばまだ納得もゆこう…」
菊間本間に詰める所謂、「御嫡子方」は雁間詰の大名と同じく、「半役人」として2~3人ずつ、班を作っては平日は毎日、交代で登城しては菊間の本間に詰める。
この「御嫡子方」だが、若年寄の嫡子の外にも雁間詰の大名の嫡子や、或いは奏者番の嫡子やそれに大坂定番の嫡子などが菊間本間に出ては、「半役人」として平日は交代で登城し、菊間本間に詰める。
それ故、若年では勤まらず、そこで忠崇が若年であれば成程、元服を果たして将軍への御目見得を済ませていたとしても、つまりは菊間本間に出る「有資格者」であったしても、未だ菊間本間に出られないのも頷けよう。
だが実際には違う。
「さればこの3人は皆、忠崇よりも年長どころか年少ぞ…、この3人の中でも一番年長の加納久周でさえ宝暦3(1753)年生まれと、宝暦元(1751)年生まれの忠崇に較べて2歳も年下にて、外の2人…、米倉昌賢は宝暦9(1759)年生まれ、太田資武に至りては宝暦11(1761)年生まれぞ…」
重富は実にスラスラと正確なる生年を諳んじてみせた。少し勘が良ければ、どうしてそんなに詳しいのかと、不自然に思うところであったが、しかし生憎と忠崇は勘とはおよそ無縁の人間であり、元より不自然に思うところはなかった。
「さればだ、この3人よりも年上の忠崇が何故に未だ、菊間本間に出られぬのかと、それを考えていたならばな、これはもしやと…」
「田沼親子の陰謀ではないか、と?」
忠崇がそう合いの手を入れると、重富も「左様」と応じて、更に続けた。
「忠崇は当たり前だが、意知に較べて遥かに血筋が良い…、否、較べるだけでも失礼というものであろうな…」
「いえ…」
「だがそれだけではないぞ…」
「それだけではない、と?」
「左様…、されば忠崇はその器量においても意知より遥かに勝っており、その点を意知が父である意次は恐れたのであろうな…」
「この忠崇めを田沼様が恐れた、と?」
忠崇がそう問返すや、重富は「意次で良いわ」と吐き捨てたので、そこで忠崇も慌てて訂正した。
「この忠崇めを意次が恐れた、と?」
「左様…、血筋は元より、その器量においても、意知よりも遥かに勝る忠崇を菊間本間に出したならばどうなるか…、きっと…、否、間違いなく上様の御目に留まり、その結果、今は意知へと向けられている…、否、意次・意知父子へと向けられている上様の御寵愛が忠崇へと移るのは必定…、さすればその御寵愛が忠崇が父である忠休にまで及ぶやも知れず、意次はそれを恐れたのであろうぞ…、何しろ、意次にしろ意知にしろ、上様の御寵愛だけが唯一の拠所なれば…、その拠所を支えに、否、良いことに意次は老中にまで昇り詰め、あまつさえ何の器量もない倅・意知をも若年寄へと昇らせ…、なれどその上様の御寵愛が忠崇へと移ってしまったならば、意次にしろ意知にしろ、何も残らず、直ちに失脚するであろうぞ…、そのことは意次自身が誰よりも一番自覚しているところであり、そこで…」
「この忠崇めを菊間本間に出さぬよう…、もそっと申さば畏れ多くも上様が御目に触れさせぬよう、陰謀を巡らせた、と?」
忠崇が確かめるように尋ねると、重富も「左様」と応じた。
無論、そんな事実はどこにもない。とりわけ、忠崇が意知よりもその器量においても勝っているなどとは、明らかに事実に反しており、正に「虚言」であった。
だが忠崇は重富のその「虚言」を疑いもせず、それどころか真に受けた。
耳心地の良いことは疑いもせず、素直に信ずる―、それが忠崇の身上らしく、それは父・忠休譲りと言えた。
重富はそんな忠崇を目の当たりにして、今にも噴出したいのを必死に堪えていた。
一方、忠崇はそうとも気付かずにすっかり憤慨した様子であった。
「意次め…、全くもって許せませぬなぁ…」
忠崇は意次に対して憤って見せたので、重富は内心、更にニンマリとした。
これで忠崇の意次に対する憤りを殺意へと昇華させれば、父・忠休にもその殺意が伝播し、そうなれば意知暗殺計画も愈々、やり易くなるからだ。
そしてそれこそが治済が描いた、その上で岩本正利を介して重富へと伝えた台本であった。
正利は一橋治済を介して、治済の実兄に当たる福井藩主の松平越前守重富とも親しくしていた。
それ故、福井藩の江戸詰の家臣も正利の存在は把握しており、正利が藩邸の門前に到着し、門番所にて身分を明かした上で来意を告げるや、直ぐに用人の宇都宮勘解由が門番所へと飛んで来て、主・重富の許へと正利を案内した。
こうして正利は重富に面会を果たすと、これまでの経緯、もとい治済の「計略」を伝えた上で、明日、明後日の2日間、まずは忠崇が父・忠休よりも先にここ、福井藩上屋敷を訪れるので、重富にはその忠崇の相手をしてやって欲しいと頼んだのであった。
その際、正利は忠崇への接遇の段取り、具体的にはその「台本」についても重富に詳しく伝え、それに対して重富も「委細承知」と応じたのであった。
果たしてその翌日の1月10日、忠崇は早くも昼四つ(午前10時頃)に福井藩の上屋敷を訪れた。
藩邸内には既に話が通じていたので、忠崇は重富の待つ茶室へと案内された。
その茶室には重富の外にも嫡子の伊豫守治好の姿があった。
忠崇は治好とは面識はなかったものの、その風体―、前髪こそ落としてはいたものの、未だ少年の面影を残しているにもかかわらず、重富の隣に陪席を許されている当たり、
「よもや…」
重富の嫡子ではあるまいかと、忠崇はそう当たりを付けた。
事実、その通りであり、
「大學頭殿とは確か、初めてでござったな…」
重富は息・治好が忠崇とは初対面であったなと、そこで治好に対して忠崇に挨拶するよう命じた。
「松平伊豫守治好です」
治好はそう名乗ると、忠崇に会釈程度だが、それでも頭を下げたので、忠崇を大いに慌てさせたものである。
それと言うのも治好の官位は従四位上侍従と恐ろしく高く、未だ朝散太夫、従五位下諸太夫に過ぎぬ忠崇よりも遥かに高い。
いや、忠崇だけではない。老中よりも「一段階」だけだが高いものであった。老中の官位はそれよりも「一段階」下の従四位下侍従であるからだ。
忠崇は未だ、菊間詰ではなく、つまりは御城への登城が許されぬ身ではあったが、それでも松平治好が去年の天明3(1783)年9月に元服し、将軍・家治への初めての御目見得が許されたと同時に、従四位上侍従に叙されたことは把握していたので、忠崇はその治好の会釈を受けて慌てて治好に平伏すると、
「酒井大學頭忠崇でござりまする…」
まるで将軍に対するかの様にして自己紹介した。
確かに治好は忠崇よりも遥かに格上ではあるものの、しかしそれでも平伏はいき過ぎというものであった。治好は将軍ではないからだ。
忠崇のその余りに見苦しい有様に重富も流石に苦笑させられ、
「大學頭殿、左様に畏まられずとも良い…」
重富は未だ平伏、畳に額を擦り付けている忠崇にそう声を掛けて頭を上げる様、促したのであった。
それで忠崇も漸くに頭を上げたものの、しかし今度は改めて重富を目の当たりにして再び、今度は重富に対して平伏しようとしたので、そうと察した重富が忠崇を制した。
忠崇は重富とも面識はなかったものの、しかしそれまでの経緯から、殊に治好に忠崇へと挨拶するよう命じた辺りから、重富であると容易に察せられた。
そしてこの重富の官位は治好以上に高く、「従四位上少将」というものであった。
忠崇が重富に対しても平伏しようとしたのも無理はない。
だが重富としては、それはひいては治済にも当て嵌まることだが、忠崇を屈服させる為に、その父・忠休よりも先にここ福井藩上屋敷へと招いた訳ではない。
重富は己にまで平伏しようとした忠崇を制すると、息・治好に目配せして、治好を茶室より退出させた。
こうして茶室にて重富は忠崇と二人きりになったところで、忠崇の為に茶を点てた。
「頂戴仕りまする…」
忠崇は重富より差出された茶を飲乾すと、今度は茶菓子まで勧められたので、忠崇は茶菓子も頂戴した。
「いや、大學頭殿とは初めてだが…、こうして逢うてみると、中々の男振りよのう…」
重富は目を細めて忠崇をそう誉めそやした。
「大學頭殿…、いや、忠崇殿と呼んでも良いかのう…」
諱でもって距離を縮める―、それは重富・治済兄弟の「手口」と言えた。
それに対して忠崇はそうとは気付かず、それどころか、
「忠崇で結構でござりまする…」
呼捨てにしてくれて構わないと、重富に「逆提案」する始末であり、どうやらすっかり重富の「術中」に嵌まったものと見える。
「されば忠崇よ…、そなた程の見所のある…、将来、有望なる男が未だ、菊間に詰められぬとは信じられぬ…」
重富は如何にも不思議そうに装いつつ、そう疑問を呈すると、
「されば一刻も早くに忠崇が菊間に詰められるよう、この重富も微力ではあるが力を致そうぞ…」
忠崇にそう「助力」を約束したのであった。
するとこれには忠崇も驚き、「えっ?越前守様が?」と問返した。
「左様…、さればこの重富は大廊下詰にて…、と申しても下之部屋詰ではあるが、直ぐ隣の上之部屋には御三家が詰めているによって…」
御三家に忠崇を推挙しよう―、重富は忠崇にそう示唆したのであった。
忠崇が喜んだのは、それも狂喜乱舞したのは言うまでもなく、忠崇は今度こそ重富に平伏したものであった。
「いやいや、忠崇よ…、吾等の様な大廊下詰は平日登城は許されてはおらず、この重富が次に登城せしは15日の月次の拝賀ぞ…」
つまり15日にならなければ御三家に忠崇を推挙してはやれないと、重富は忠崇にそう告げていたのだ。
一方、忠崇もその程度のことは承知しており、重富が己を認めてくれただけでも十分であった。
重富はそれから忠崇とは、とりとめのない雑談に興じて、その日の面会を終えた。
だが翌日の1月11日ともなると、些か様相が異なった。
この日もまた、忠崇は昼四つ(午前10時頃)に福井藩上屋敷を訪れると、重富は今日は忠崇を見晴らしの良い庭へと案内し、池に面した御影石による「ガーデンテーブル」に腰掛けた。
重富は池に視線を送りつつ、「昨日、あれから色々と考えたのだがのう…」と切出した。
「忠崇が本来なれば今頃は既に、菊間の本間に出られても良さそうなところ…、否、然るべきであるにもかかわらず、それが未だ、叶わぬとは…、これはもしや、田沼親子の陰謀ではないか、とな…」
「何と…」
「されば考えてもみよ…、忠崇を除いて、そなたと同じく、若年寄を父に持つ者は皆、菊間の本間に出でておるぞ…、太田備後守資愛が息・采女正資武、加納遠江守久堅が息・備中守久周、米倉丹後守昌晴が息・長門守昌賢…、この3人は皆、そなたと同じく父が若年寄を勤めしによって菊間の本間に出でておる」
確かに重富の言う通りであった。
「これで百歩譲って、この3人が忠崇よりも年長であるならば…、つまりは忠崇が3人に較べて未だ若年であり、それ故、元服を済ませて上様への初御目見得を済ませたとは申せ、半役人としての勤めは果たせずと、それならばまだ納得もゆこう…」
菊間本間に詰める所謂、「御嫡子方」は雁間詰の大名と同じく、「半役人」として2~3人ずつ、班を作っては平日は毎日、交代で登城しては菊間の本間に詰める。
この「御嫡子方」だが、若年寄の嫡子の外にも雁間詰の大名の嫡子や、或いは奏者番の嫡子やそれに大坂定番の嫡子などが菊間本間に出ては、「半役人」として平日は交代で登城し、菊間本間に詰める。
それ故、若年では勤まらず、そこで忠崇が若年であれば成程、元服を果たして将軍への御目見得を済ませていたとしても、つまりは菊間本間に出る「有資格者」であったしても、未だ菊間本間に出られないのも頷けよう。
だが実際には違う。
「さればこの3人は皆、忠崇よりも年長どころか年少ぞ…、この3人の中でも一番年長の加納久周でさえ宝暦3(1753)年生まれと、宝暦元(1751)年生まれの忠崇に較べて2歳も年下にて、外の2人…、米倉昌賢は宝暦9(1759)年生まれ、太田資武に至りては宝暦11(1761)年生まれぞ…」
重富は実にスラスラと正確なる生年を諳んじてみせた。少し勘が良ければ、どうしてそんなに詳しいのかと、不自然に思うところであったが、しかし生憎と忠崇は勘とはおよそ無縁の人間であり、元より不自然に思うところはなかった。
「さればだ、この3人よりも年上の忠崇が何故に未だ、菊間本間に出られぬのかと、それを考えていたならばな、これはもしやと…」
「田沼親子の陰謀ではないか、と?」
忠崇がそう合いの手を入れると、重富も「左様」と応じて、更に続けた。
「忠崇は当たり前だが、意知に較べて遥かに血筋が良い…、否、較べるだけでも失礼というものであろうな…」
「いえ…」
「だがそれだけではないぞ…」
「それだけではない、と?」
「左様…、されば忠崇はその器量においても意知より遥かに勝っており、その点を意知が父である意次は恐れたのであろうな…」
「この忠崇めを田沼様が恐れた、と?」
忠崇がそう問返すや、重富は「意次で良いわ」と吐き捨てたので、そこで忠崇も慌てて訂正した。
「この忠崇めを意次が恐れた、と?」
「左様…、血筋は元より、その器量においても、意知よりも遥かに勝る忠崇を菊間本間に出したならばどうなるか…、きっと…、否、間違いなく上様の御目に留まり、その結果、今は意知へと向けられている…、否、意次・意知父子へと向けられている上様の御寵愛が忠崇へと移るのは必定…、さすればその御寵愛が忠崇が父である忠休にまで及ぶやも知れず、意次はそれを恐れたのであろうぞ…、何しろ、意次にしろ意知にしろ、上様の御寵愛だけが唯一の拠所なれば…、その拠所を支えに、否、良いことに意次は老中にまで昇り詰め、あまつさえ何の器量もない倅・意知をも若年寄へと昇らせ…、なれどその上様の御寵愛が忠崇へと移ってしまったならば、意次にしろ意知にしろ、何も残らず、直ちに失脚するであろうぞ…、そのことは意次自身が誰よりも一番自覚しているところであり、そこで…」
「この忠崇めを菊間本間に出さぬよう…、もそっと申さば畏れ多くも上様が御目に触れさせぬよう、陰謀を巡らせた、と?」
忠崇が確かめるように尋ねると、重富も「左様」と応じた。
無論、そんな事実はどこにもない。とりわけ、忠崇が意知よりもその器量においても勝っているなどとは、明らかに事実に反しており、正に「虚言」であった。
だが忠崇は重富のその「虚言」を疑いもせず、それどころか真に受けた。
耳心地の良いことは疑いもせず、素直に信ずる―、それが忠崇の身上らしく、それは父・忠休譲りと言えた。
重富はそんな忠崇を目の当たりにして、今にも噴出したいのを必死に堪えていた。
一方、忠崇はそうとも気付かずにすっかり憤慨した様子であった。
「意次め…、全くもって許せませぬなぁ…」
忠崇は意次に対して憤って見せたので、重富は内心、更にニンマリとした。
これで忠崇の意次に対する憤りを殺意へと昇華させれば、父・忠休にもその殺意が伝播し、そうなれば意知暗殺計画も愈々、やり易くなるからだ。
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