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若年寄首座にして勝手掛を兼ねる酒井石見守忠休は正月10日の将軍の東叡山への御詣の豫参に選ばれず、豫参に選ばれた田沼意知を逆怨みする。
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1月8日、新番頭の松平忠香は御城へと登城すると、詰所である新番所へと入り、そこで佐野善左衛門を掴まえると、善左衛門を廊下へと引張り出した。
「これを…」
忠香は善左衛門を新番所前廊下へと引張り出すと懐中より一枚の紙切れを取出し、それを善左衛門へと押付けた。
すると善左衛門は直ぐには紙切れの中身を検めずに、「これは…」と忠香に尋ねた。
「されば山城守様御直筆の受領書ぞ…」
忠香が声を潜ませてそう答えると、善左衛門も漸くに、それも慌てて紙切れの中身を検めた。
成程、その紙切れには如何にも、
「若年寄の田沼意知が佐野善左衛門より金子200両を受取った…」
昨日の1月7日の日付と共にそう認められていた。
それは取りも直さず、忠香が昨日、早速にも神田橋御門内にある田沼家上屋敷へと足を運び、そして善左衛門が忠香に預けた200両を意知へと渡してくれたことを意味していた。
否、それだけではない。忠香は意知に対して、佐野善左衛門のことを売込むことも忘れなかったそうな。
「さればこの忠香、そなたがことを…、新番3番組と4番組が扈従せし次の御放鷹において、3番組よりは佐野善左衛門を供弓に推挙してくれる様、山城守様に確と頼み申した故、これでそなたが次の御放鷹において供弓に選ばれるはほぼ、間違いなかろうて…」
忠香は善左衛門にそう囁いた。
無論、そんな事実はない。
佐野善左衛門が忠香に預けた金子200両は忠香とそれに田沼家臣の村上半左衛門・勝之進父子とで山分けしてしまい、意知にはそれこそ、
「びた一文…」
渡ってはおらず、それ故、忠香が意知に佐野善左衛門を供弓に推挙した事実もない。
だが佐野善左衛門はそうとも知らず、忠香の言葉を真に受け、天にも昇る心地がした。
その上、善左衛門は明日9日は当番であるのだが、それもまた、
「天にも昇る心地…」
それに拍車をかけた。
それと言うのも明日9日には過日、鷹狩始において見事、雁を仕留めた遠山大三郎と筒井左膳の両名に対し、その褒美として将軍・家治より時服が贈られる予定であったからだ。
これで仮に善左衛門の明日9日の「勤務」が朝五つ(午前8時頃)より昼八つ(午後2時頃)までの朝番であったならば、遠山大三郎と筒井左膳の謂わば、「晴舞台」に否でも向合わざるを得ない。時服の受渡しはその時間帯、即ち、朝五つ(午前8時頃)より昼八つ(午後2時頃)までの間に行われるからだ。
だが実際には善左衛門の明日9日の「勤務」は時服の受渡しを終えた昼八つ(午後2時頃)より始まる当番であるので、時服の受渡しを見ずに済むというものであった。
それ故、善左衛門は次の鷹狩りの供弓に内定した喜びに加えて、赤の他人の「晴舞台」を見ずに済むことでその喜びが増した。
これで赤の他人の「晴舞台」を見せ付けられては、折角の喜び―、次の鷹狩りにおける供弓に内定した喜びも半減するところであった。
かくして善左衛門は忠香に大いに感謝し、その日は一日中、上機嫌であった。
そんな善左衛門と正反対に不機嫌であったのが若年寄の、それも首座と勝手掛を兼ねる筆頭の酒井石見守忠休と平の太田備後守資愛の二人であり、とりわけ酒井忠休は不機嫌であった。
それは明後日の東叡山への御詣に起因する。
即ち、明後日の10日―、正月10日は毎年、将軍が自ら上野の東叡山寛永寺へと御詣に足を運ぶ日であった。
無論、将軍一人、御詣させる訳にはゆかない。老中や若年寄なども豫参、将軍に随い、一緒に詣でる。
その毎年恒例とも言える正月10日の、将軍の東叡山寛永寺への御詣における豫参に今年は何と若年寄からは田沼意知が選ばれたのであった。
将軍の御詣における豫参は老中や若年寄にとっては正に、「晴舞台」であり、それが一年でも最初の東叡山寛永寺への御詣における豫参ともなれば尚更であった。
だがその豫参に酒井忠休と太田資愛の二人は外されていた。
それは今朝のことであった。月番老中の田沼意次より明後日の東叡山寛永寺へと豫参すべき若年寄の名が発表されたのだが、そこに酒井忠休と太田資愛の名はなかった。
即ち、意次によってその名が読上げられたのは加納遠江守久堅と米倉丹後守昌晴、そして意次の息、意知の3人だけであったのだ。
それ故、酒井忠休と太田資愛の二人は気分を害した。
殊に忠休の場合、不機嫌を通り越して、これまでにない屈辱感に襲われた。
それは偏に意知の所為と言えた。
「晴の豫参に何故に筋目正しきこの俺が選ばれず、こともあろうにどこぞの馬の骨とも分からぬ盗賊も同然の下賤なる成上がり者の小倅が選ばれねばならぬのだ…」
それこそが忠休の不機嫌、屈辱感の原因であり、忠休はそれが昂じて意知に怨みの感情さえ抱いた。
否、それは完全なる逆怨みであるのだが、忠休はそんなことは「お構いなし」であった。
一方、太田資愛も酒井忠休と同じく豫参に選ばれずに気分を害し、不機嫌になったものの、しかし忠休のその余りの不機嫌さを目の当たりにして、忠休に気を遣わねばならず、己の不機嫌さなど雲散霧消した程であった。
昼になり、老中の「廻り」を終えた午の下刻、即ち、昼の九つ半(午後1時頃)、若年寄は昼食を摂るべく下部屋へと向かった。
そこで若年寄は各々の下部屋にて昼食を摂る訳だが、太田資愛は気を利かせて、少しでも忠休の機嫌を取るべく、と言うよりは慰撫すべく、己の弁当を抱えて忠休の下部屋へと上がった。
「一緒に弁当を食べてくれませんか…」
資愛は辞を低うして、忠休にそう頼んだのであった。
忠休は昼までずっと不機嫌であり、それは若年寄の執務にも差支える程であった。
忠休が何故、不機嫌なのか、それは誰もが分かっていた。
「豫参に選ばれず、それで御機嫌斜めなのだな…」
外の若年寄は皆、そうと気付いており、同時に忠休のその幼児性には心底、呆れ果てたるものであった。資愛でさえもそうであった。
そこで資愛が外の若年寄に成代わり、昼飯の機会を利用して忠休の機嫌を取ることにしたのだ。
それならば何も太田資愛でなくとも良さそうに思えるが、しかし、外の若年寄では余り意味がなかった。
それと言うのも資愛以外の―、正確には忠休と資愛以外の若年寄と言えば、加納久堅と米倉昌晴、それに意知の3人しかおらず、この3人は皆、豫参に選ばれた面々であり、そんな彼等が忠休の「御機嫌」を取ろうにも、余り効果は見込めなかった。
何しろ忠休は豫参に選ばれず、それ故に不機嫌、どころか意知に殺意まで抱く始末であり、そんな忠休に対して、忠休とは正反対に豫参に選ばれた久堅たちが忠休を慰めたところで、忠休が素直に耳を傾けるとも思えなかった。
それどころか幼児性丸出しの忠休のことである。厭味かと、そう受取る恐れさえあった。
そこで忠休とは同じ立場の資愛が忠休を慰めることにし、そこで資愛は弁当を抱えて忠休の下部屋へと足を運んでは、一緒に昼飯を食べてくれませんかと、そう辞を低うして頼んだ次第であった。
すると忠休も相手が資愛ともなると胸襟を開き、「ああ…、良かろう」とこれを許した。
「いやはや…、この資愛、今年の豫参には選ばれず、無念でござる…」
資愛は忠休と昼食を食べながらそう切出した。
否、実のところ資愛は今となってはそれ程、無念ではなかった。
無論、資愛とて最初は忠休と同じく、豫参に選ばれず、それ故、無念に思い、不機嫌にもなったが、忠休の余りの剣幕を目の当たりにして不機嫌さと共に、無念さも雲散霧消した。
それ故、資愛は今となってはそれ程、無念ではなかった。
むしろ無念という表現は忠休にこそ当て嵌まるであろう。
だがここで資愛が忠休に対して、
「豫参に選ばれずに残念でしたね…」
その様に語りかければ、幼児性丸出しの忠休のことである。己の胸の内を見透かされて、顔を強張らせては更に不機嫌となるのは必定。否、それどころか忠休は資愛にまで憎悪の感情を向けてくるやも知れなかった。
資愛はその危険性を回避すべく、そこで我事として、つまりは自分が豫参に選ばれずに無念に思っていますと、忠休にそう語りかけたのであった。
これならば忠休から斯かる憎悪を向けられる危険性もない。
実際、資愛が忠休にそう語りかけるや、忠休は表情を緩め、
「それはこの忠休とて同じよ…」
己の胸の内を素直に明かしたものである。
資愛は忠休が素直に胸襟を開いてくれたことで、内心、ホッとすると更に畳掛けた。
「なれど…、酒井殿は今月は月番にて、されば豫参に選ばれずとも致し方なく…」
老中にしろ若年寄にしろ、正月が月番の者は件の正月10日の豫参には選ばれない。
そして今月―、正月は若年寄においては酒井忠休が月番であり、それ故、元より忠休は豫参には選ばれる余地がなく、資愛はその点を指摘したのであった。
忠休もその点は分かっていたが、しかし、それでもどうにも許せなかったのは偏に意知の存在に起因する。
即ち、意知は若年寄の中でも唯一人、月番が免除されており、これで仮に意知も外の若年寄と同様、月番を勤めることが義務付けられていたならば、今月は意知が月番を勤めていたやも知れず、
「その場合、この俺こそが意知に代わって豫参に選ばれていた筈なのに…」
忠休はそう思わずにはいられず、それ故、どうにも許せなかったのだ。
いやはや牽強付会、逆怨みも良いところであったが、しかし忠休はそうは考えず、それどころか正当なる怒りであると信じて疑わなかった。
尤も、忠休がここまで追込まれても仕方のない面はあった。
それと言うのも巡り合わせが悪かったのか、去年、一昨年と忠休は正月が月番であり、それ故、忠休が最後に正月10日の豫参に選ばれたのは3年前の天明元年、と言うよりは安永元(1781)年であった。
忠休はその為、意知が新たに若年寄に加わった去年、天明3(1783)年11月の時点では、
「来年こそは…」
天明4(1784)年の正月10日の豫参に選ばれるに違いないと、そう期待、否、確信した。
だがそれが意知がこともあろうに月番を免除された為に、忠休はまたしても正月に月番を勤める羽目となり、それが為に、
「またしても…」
正月10日の豫参に選ばれず、忠休としては月番を免除された意知を怨まずにはいられなかった。
「そなたとて…、否、そなたの場合はそもそも月番ではないのだから、豫参に選ばれて然るべきであろうがっ!」
忠休は元々、地声がでかいが、それが今は興奮しているらしく、更に声量が増した。
資愛としてはこの場合、「まぁまぁ」と宥めるべきところであったやも知れぬが、しかしそんなことをすれば逆効果、却って忠休の「ヴォルテージ」を上げてしまうことになりかねないと、資愛にはそれが読めていたので、そこで忠休が言うに任せたのであった。
「そなたとて、そうであろうがっ。否、そなたの場合、この忠休とは違うて、今月は月番ではない故、豫参に選ばれていてもおかしゅうはなかったのだっ。それが…、あの下賤なる成上がり者めが小倅が我等、若年寄に紛れ込んだが為に、そなたまでその煽りを受けて明後日の豫参から弾き飛ばされてしまったではないかっ」
忠休のその余りに声を響かせた「怪気炎」には資愛も流石にハラハラさせられた。意知の耳に入りはしないかと、資愛はそれを案じてハラハラさせられたのだ。
幸い、意知も今日も御殿勘定所において勘定奉行や勘定吟味役、それに勘定組頭といった勘定方役人と昼飯を摂っていた。
意知も若年寄の一人として老中が「廻り」を終えた午の下刻、即ち、昼の九つ半(午後1時頃)になると外の若年寄―、忠休や資愛らと共にここ下部屋へと足を運ぶ。下部屋に昼飯が用意されているからだ。
だが意知はその昼飯を抱えて下部屋から御殿勘定所へと足を運ぶのを日課としていた。
意知としては外の若年寄と昼飯を食うよりは実務幕僚である勘定方役人と昼飯を食う方が遥かに有意義に思えたからであろう。
それ故、下部屋には意知は不在であり、忠休の「怪気炎」が御殿勘定所にいる意知の耳にまで届くことはないだろうが、しかしそれとて限度があろう。
若年寄の下部屋と御殿勘定所とはそれ程、離れている訳ではないからだ。
尤も、意知の場合、忠休の「怪気炎」など歯牙にも掛けぬやも知れなかった。意知は元より、忠休をまともに相手にはしていなかったからだ。
もっと言えば完全に小馬鹿にしていた。
忠休は若年寄の中でも首座と勝手掛を兼ねており、
「名実共に…」
若年寄の筆頭であったが、意知はそんな忠休を小馬鹿にしていた。
意知の能力が忠休のそれを完全に凌駕してしまっていたからだが、それは傍目からも―、資愛たち外の若年寄にも感じられた。
無論、当の本人たる忠休もそのことは誰よりも、
「ヒシヒシと…」
感じられ、意知を憎んでいた。
意知もまた、無論、それは承知していたので、その様な忠休から今更何を言われたところで意知はビクともしないであろう。
それはともあれ、忠休の言分には一理はあった。
即ち、意知が新たに若年寄に任じられなければ、資愛が明後日の豫参に選ばれていた可能性が極めて高かったからだ。それは忠休の比ではない。
それと言うのも、去年の天明3(1783)年11月に奏者番であった意知が新たに若年寄に加わるまでは若年寄の定員は4人であった。
一方、正月10日の豫参だが、若年寄からは3人が豫参に選ばれるのが仕来りであった。
それ故、仮に意知が若年寄に加わっていなければ、今年、今月の場合、今月の月番若年寄は酒井忠休であるので、忠休を除いた3人、即ち、太田資愛と加納久堅、そして米倉昌晴がそのまま、豫参に選ばれた筈であった。
それがそこへ新たに意知が若年寄に加わったが為に、忠休が口にした通り、
「その煽りを受け…」
資愛が弾き飛ばされてしまったのだ。
尤も、それならば何も資愛が弾き飛ばされずとも、加納久堅や、或いは米倉昌晴が弾き飛ばされても良かった筈だ。
否、それ以前に意知自身が豫参に選ばれなければ良かったのだが、しかしそうはならなかったのには理由があった。
資愛が若年寄に列なったのは3年前の天明元(1781)年9月のことであり、明くる天明2(1782)年正月10日には資愛は早速にも豫参に選ばれた。
新任の若年寄が次の年の正月10日の豫参に選ばれるのが、これまた仕来りであり、それは宝暦11(1761)年8月に若年寄に任じられた酒井忠休にしても同じであった。
忠休もまた宝暦11(1761)年8月に若年寄に任じられるや、明くる宝暦12(1762)年正月10日の豫参に選ばれたのであった。
それ故、去年の天明3(1783)年11月に若年寄に任じられた意知が明くる、つまりは今年、天明4(1784)年正月10日の豫参に選ばれるのは至極当然のことであった。
そして資愛が若年寄に任じられた天明元(1781)年9月の時点では意知は未だ若年寄には加わってはおらず、しかしその代わり松平伊賀守忠順が存命であった。
松平忠順が存命であった折にはこの忠順が若年寄の首座であったのだが、明くる天明2(1782)年の正月、月番若年寄は酒井忠休であった為に、そこで正月10日の豫参には酒井忠休と太田資愛を除く、松平忠順と加納久堅、米倉昌晴の中から2人が選ばれることになった。
忠休は月番である為に豫参には選ばれず、それとは逆に資愛は新任の若年寄として豫参に選ばれるのが確定しており、そこで残る「2枠」を忠順と久堅、昌晴の3人で争う格好になった訳だ。
否、実際には輪番制であり、その年―、天明2(1782)年正月10日の豫参には忠順と久堅が選ばれ、昌晴が弾き飛ばされた。
それ故、更にその翌年、天明3(1783)年の正月10日には本来ならば忠順と久堅、そして昌晴の3人が豫参に選ばれる筈であった。
天明3(1783)年の正月もまた、巡り合わせが悪く、忠休がまたしても月番であり、豫参には選ばれず、一方、資愛もまたその前年に新任の若年寄として豫参に選ばれたばかりであるので、やはり豫参には選ばれず、そこで残る3人の若年寄、即ち、忠順と久堅、そして昌晴の3人が豫参に選ばれる筈であった。
だが実際にはこの年―、天明3(1783)年の正月10日は生憎の雪であり、恒例の将軍の東叡山への御詣は取止めとなった。
将軍の御詣が中止になった以上、豫参は成立たず、やはり中止となった。
それから一月も経たない天明3(1783)年2月8日に首座の忠順が卒した為に若年寄の定員は4人に減り、それと同時に勝手掛を兼ねていた忠休が首座も兼ねる様になった。
これでその年―、天明3(1783)年11月に意知が新たに若年寄に加わらずに若年寄の定員が4人のまま、天明4(1784)年を迎えていれば、それも正月10日を過ぎてさえいれば、月番若年寄の忠休を除いた資愛と久堅、そして昌晴の3人がそのまま豫参に選ばれたものを、意知が新たに若年寄に加わったが為に資愛が弾き飛ばされてしまったのだ。
否、百歩譲って、一昨年、去年と月番ではなかったにもかかわらず、或いは生憎の天候により豫参の機会を逃がし続けた昌晴が今年―、明後日の豫参に選ばれるのは当然としても、何故、久堅までが選ばれたのか、その点だけは資愛もどうにも我慢がならなかった。
資愛は一昨年の天明2(1782)年の正月10日には新任若年寄として豫参に自動的に選ばれたので、今年―、明後日の豫参には選ばれなかった訳だが、それならば久堅とて立場は資愛と同じの筈であった。
久堅もまた一昨年の正月10日の豫参には選ばれた訳だから、明後日の豫参には久堅が弾き飛ばされても良かった筈だからだ。
だが実際に弾き飛ばされたのは資愛であり、資愛はその点が納得出来なかったのだ。
否、それもよくよく考えればそう難しい話ではない。
それと言うのも去年、雪の為に中止となった正月10日の将軍・家治の東叡山への御詣だが、その豫参として若年寄からは今は亡き忠順とそれに久堅と昌晴の3人が選ばれていたにもかかわらず、雪の為に豫参が叶わなかったのだ。
その様な経緯から、今年、明後日の豫参には忠順に代わって新任の若年寄の意知が自動的に選ばれ、それに去年、豫参する筈であった久堅と昌晴の二人がこれまた、
「自動的に…」
豫参に選ばれた訳で、これもまた輪番制による。
資愛もそれは頭では理解していたものの、しかし感情がどうにも理解に追着かなかった。
尤も、それでも資愛は忠休よりは分別があるので、忠休の様に己の内心をぶちまける様な真似はしなかった。
「これを…」
忠香は善左衛門を新番所前廊下へと引張り出すと懐中より一枚の紙切れを取出し、それを善左衛門へと押付けた。
すると善左衛門は直ぐには紙切れの中身を検めずに、「これは…」と忠香に尋ねた。
「されば山城守様御直筆の受領書ぞ…」
忠香が声を潜ませてそう答えると、善左衛門も漸くに、それも慌てて紙切れの中身を検めた。
成程、その紙切れには如何にも、
「若年寄の田沼意知が佐野善左衛門より金子200両を受取った…」
昨日の1月7日の日付と共にそう認められていた。
それは取りも直さず、忠香が昨日、早速にも神田橋御門内にある田沼家上屋敷へと足を運び、そして善左衛門が忠香に預けた200両を意知へと渡してくれたことを意味していた。
否、それだけではない。忠香は意知に対して、佐野善左衛門のことを売込むことも忘れなかったそうな。
「さればこの忠香、そなたがことを…、新番3番組と4番組が扈従せし次の御放鷹において、3番組よりは佐野善左衛門を供弓に推挙してくれる様、山城守様に確と頼み申した故、これでそなたが次の御放鷹において供弓に選ばれるはほぼ、間違いなかろうて…」
忠香は善左衛門にそう囁いた。
無論、そんな事実はない。
佐野善左衛門が忠香に預けた金子200両は忠香とそれに田沼家臣の村上半左衛門・勝之進父子とで山分けしてしまい、意知にはそれこそ、
「びた一文…」
渡ってはおらず、それ故、忠香が意知に佐野善左衛門を供弓に推挙した事実もない。
だが佐野善左衛門はそうとも知らず、忠香の言葉を真に受け、天にも昇る心地がした。
その上、善左衛門は明日9日は当番であるのだが、それもまた、
「天にも昇る心地…」
それに拍車をかけた。
それと言うのも明日9日には過日、鷹狩始において見事、雁を仕留めた遠山大三郎と筒井左膳の両名に対し、その褒美として将軍・家治より時服が贈られる予定であったからだ。
これで仮に善左衛門の明日9日の「勤務」が朝五つ(午前8時頃)より昼八つ(午後2時頃)までの朝番であったならば、遠山大三郎と筒井左膳の謂わば、「晴舞台」に否でも向合わざるを得ない。時服の受渡しはその時間帯、即ち、朝五つ(午前8時頃)より昼八つ(午後2時頃)までの間に行われるからだ。
だが実際には善左衛門の明日9日の「勤務」は時服の受渡しを終えた昼八つ(午後2時頃)より始まる当番であるので、時服の受渡しを見ずに済むというものであった。
それ故、善左衛門は次の鷹狩りの供弓に内定した喜びに加えて、赤の他人の「晴舞台」を見ずに済むことでその喜びが増した。
これで赤の他人の「晴舞台」を見せ付けられては、折角の喜び―、次の鷹狩りにおける供弓に内定した喜びも半減するところであった。
かくして善左衛門は忠香に大いに感謝し、その日は一日中、上機嫌であった。
そんな善左衛門と正反対に不機嫌であったのが若年寄の、それも首座と勝手掛を兼ねる筆頭の酒井石見守忠休と平の太田備後守資愛の二人であり、とりわけ酒井忠休は不機嫌であった。
それは明後日の東叡山への御詣に起因する。
即ち、明後日の10日―、正月10日は毎年、将軍が自ら上野の東叡山寛永寺へと御詣に足を運ぶ日であった。
無論、将軍一人、御詣させる訳にはゆかない。老中や若年寄なども豫参、将軍に随い、一緒に詣でる。
その毎年恒例とも言える正月10日の、将軍の東叡山寛永寺への御詣における豫参に今年は何と若年寄からは田沼意知が選ばれたのであった。
将軍の御詣における豫参は老中や若年寄にとっては正に、「晴舞台」であり、それが一年でも最初の東叡山寛永寺への御詣における豫参ともなれば尚更であった。
だがその豫参に酒井忠休と太田資愛の二人は外されていた。
それは今朝のことであった。月番老中の田沼意次より明後日の東叡山寛永寺へと豫参すべき若年寄の名が発表されたのだが、そこに酒井忠休と太田資愛の名はなかった。
即ち、意次によってその名が読上げられたのは加納遠江守久堅と米倉丹後守昌晴、そして意次の息、意知の3人だけであったのだ。
それ故、酒井忠休と太田資愛の二人は気分を害した。
殊に忠休の場合、不機嫌を通り越して、これまでにない屈辱感に襲われた。
それは偏に意知の所為と言えた。
「晴の豫参に何故に筋目正しきこの俺が選ばれず、こともあろうにどこぞの馬の骨とも分からぬ盗賊も同然の下賤なる成上がり者の小倅が選ばれねばならぬのだ…」
それこそが忠休の不機嫌、屈辱感の原因であり、忠休はそれが昂じて意知に怨みの感情さえ抱いた。
否、それは完全なる逆怨みであるのだが、忠休はそんなことは「お構いなし」であった。
一方、太田資愛も酒井忠休と同じく豫参に選ばれずに気分を害し、不機嫌になったものの、しかし忠休のその余りの不機嫌さを目の当たりにして、忠休に気を遣わねばならず、己の不機嫌さなど雲散霧消した程であった。
昼になり、老中の「廻り」を終えた午の下刻、即ち、昼の九つ半(午後1時頃)、若年寄は昼食を摂るべく下部屋へと向かった。
そこで若年寄は各々の下部屋にて昼食を摂る訳だが、太田資愛は気を利かせて、少しでも忠休の機嫌を取るべく、と言うよりは慰撫すべく、己の弁当を抱えて忠休の下部屋へと上がった。
「一緒に弁当を食べてくれませんか…」
資愛は辞を低うして、忠休にそう頼んだのであった。
忠休は昼までずっと不機嫌であり、それは若年寄の執務にも差支える程であった。
忠休が何故、不機嫌なのか、それは誰もが分かっていた。
「豫参に選ばれず、それで御機嫌斜めなのだな…」
外の若年寄は皆、そうと気付いており、同時に忠休のその幼児性には心底、呆れ果てたるものであった。資愛でさえもそうであった。
そこで資愛が外の若年寄に成代わり、昼飯の機会を利用して忠休の機嫌を取ることにしたのだ。
それならば何も太田資愛でなくとも良さそうに思えるが、しかし、外の若年寄では余り意味がなかった。
それと言うのも資愛以外の―、正確には忠休と資愛以外の若年寄と言えば、加納久堅と米倉昌晴、それに意知の3人しかおらず、この3人は皆、豫参に選ばれた面々であり、そんな彼等が忠休の「御機嫌」を取ろうにも、余り効果は見込めなかった。
何しろ忠休は豫参に選ばれず、それ故に不機嫌、どころか意知に殺意まで抱く始末であり、そんな忠休に対して、忠休とは正反対に豫参に選ばれた久堅たちが忠休を慰めたところで、忠休が素直に耳を傾けるとも思えなかった。
それどころか幼児性丸出しの忠休のことである。厭味かと、そう受取る恐れさえあった。
そこで忠休とは同じ立場の資愛が忠休を慰めることにし、そこで資愛は弁当を抱えて忠休の下部屋へと足を運んでは、一緒に昼飯を食べてくれませんかと、そう辞を低うして頼んだ次第であった。
すると忠休も相手が資愛ともなると胸襟を開き、「ああ…、良かろう」とこれを許した。
「いやはや…、この資愛、今年の豫参には選ばれず、無念でござる…」
資愛は忠休と昼食を食べながらそう切出した。
否、実のところ資愛は今となってはそれ程、無念ではなかった。
無論、資愛とて最初は忠休と同じく、豫参に選ばれず、それ故、無念に思い、不機嫌にもなったが、忠休の余りの剣幕を目の当たりにして不機嫌さと共に、無念さも雲散霧消した。
それ故、資愛は今となってはそれ程、無念ではなかった。
むしろ無念という表現は忠休にこそ当て嵌まるであろう。
だがここで資愛が忠休に対して、
「豫参に選ばれずに残念でしたね…」
その様に語りかければ、幼児性丸出しの忠休のことである。己の胸の内を見透かされて、顔を強張らせては更に不機嫌となるのは必定。否、それどころか忠休は資愛にまで憎悪の感情を向けてくるやも知れなかった。
資愛はその危険性を回避すべく、そこで我事として、つまりは自分が豫参に選ばれずに無念に思っていますと、忠休にそう語りかけたのであった。
これならば忠休から斯かる憎悪を向けられる危険性もない。
実際、資愛が忠休にそう語りかけるや、忠休は表情を緩め、
「それはこの忠休とて同じよ…」
己の胸の内を素直に明かしたものである。
資愛は忠休が素直に胸襟を開いてくれたことで、内心、ホッとすると更に畳掛けた。
「なれど…、酒井殿は今月は月番にて、されば豫参に選ばれずとも致し方なく…」
老中にしろ若年寄にしろ、正月が月番の者は件の正月10日の豫参には選ばれない。
そして今月―、正月は若年寄においては酒井忠休が月番であり、それ故、元より忠休は豫参には選ばれる余地がなく、資愛はその点を指摘したのであった。
忠休もその点は分かっていたが、しかし、それでもどうにも許せなかったのは偏に意知の存在に起因する。
即ち、意知は若年寄の中でも唯一人、月番が免除されており、これで仮に意知も外の若年寄と同様、月番を勤めることが義務付けられていたならば、今月は意知が月番を勤めていたやも知れず、
「その場合、この俺こそが意知に代わって豫参に選ばれていた筈なのに…」
忠休はそう思わずにはいられず、それ故、どうにも許せなかったのだ。
いやはや牽強付会、逆怨みも良いところであったが、しかし忠休はそうは考えず、それどころか正当なる怒りであると信じて疑わなかった。
尤も、忠休がここまで追込まれても仕方のない面はあった。
それと言うのも巡り合わせが悪かったのか、去年、一昨年と忠休は正月が月番であり、それ故、忠休が最後に正月10日の豫参に選ばれたのは3年前の天明元年、と言うよりは安永元(1781)年であった。
忠休はその為、意知が新たに若年寄に加わった去年、天明3(1783)年11月の時点では、
「来年こそは…」
天明4(1784)年の正月10日の豫参に選ばれるに違いないと、そう期待、否、確信した。
だがそれが意知がこともあろうに月番を免除された為に、忠休はまたしても正月に月番を勤める羽目となり、それが為に、
「またしても…」
正月10日の豫参に選ばれず、忠休としては月番を免除された意知を怨まずにはいられなかった。
「そなたとて…、否、そなたの場合はそもそも月番ではないのだから、豫参に選ばれて然るべきであろうがっ!」
忠休は元々、地声がでかいが、それが今は興奮しているらしく、更に声量が増した。
資愛としてはこの場合、「まぁまぁ」と宥めるべきところであったやも知れぬが、しかしそんなことをすれば逆効果、却って忠休の「ヴォルテージ」を上げてしまうことになりかねないと、資愛にはそれが読めていたので、そこで忠休が言うに任せたのであった。
「そなたとて、そうであろうがっ。否、そなたの場合、この忠休とは違うて、今月は月番ではない故、豫参に選ばれていてもおかしゅうはなかったのだっ。それが…、あの下賤なる成上がり者めが小倅が我等、若年寄に紛れ込んだが為に、そなたまでその煽りを受けて明後日の豫参から弾き飛ばされてしまったではないかっ」
忠休のその余りに声を響かせた「怪気炎」には資愛も流石にハラハラさせられた。意知の耳に入りはしないかと、資愛はそれを案じてハラハラさせられたのだ。
幸い、意知も今日も御殿勘定所において勘定奉行や勘定吟味役、それに勘定組頭といった勘定方役人と昼飯を摂っていた。
意知も若年寄の一人として老中が「廻り」を終えた午の下刻、即ち、昼の九つ半(午後1時頃)になると外の若年寄―、忠休や資愛らと共にここ下部屋へと足を運ぶ。下部屋に昼飯が用意されているからだ。
だが意知はその昼飯を抱えて下部屋から御殿勘定所へと足を運ぶのを日課としていた。
意知としては外の若年寄と昼飯を食うよりは実務幕僚である勘定方役人と昼飯を食う方が遥かに有意義に思えたからであろう。
それ故、下部屋には意知は不在であり、忠休の「怪気炎」が御殿勘定所にいる意知の耳にまで届くことはないだろうが、しかしそれとて限度があろう。
若年寄の下部屋と御殿勘定所とはそれ程、離れている訳ではないからだ。
尤も、意知の場合、忠休の「怪気炎」など歯牙にも掛けぬやも知れなかった。意知は元より、忠休をまともに相手にはしていなかったからだ。
もっと言えば完全に小馬鹿にしていた。
忠休は若年寄の中でも首座と勝手掛を兼ねており、
「名実共に…」
若年寄の筆頭であったが、意知はそんな忠休を小馬鹿にしていた。
意知の能力が忠休のそれを完全に凌駕してしまっていたからだが、それは傍目からも―、資愛たち外の若年寄にも感じられた。
無論、当の本人たる忠休もそのことは誰よりも、
「ヒシヒシと…」
感じられ、意知を憎んでいた。
意知もまた、無論、それは承知していたので、その様な忠休から今更何を言われたところで意知はビクともしないであろう。
それはともあれ、忠休の言分には一理はあった。
即ち、意知が新たに若年寄に任じられなければ、資愛が明後日の豫参に選ばれていた可能性が極めて高かったからだ。それは忠休の比ではない。
それと言うのも、去年の天明3(1783)年11月に奏者番であった意知が新たに若年寄に加わるまでは若年寄の定員は4人であった。
一方、正月10日の豫参だが、若年寄からは3人が豫参に選ばれるのが仕来りであった。
それ故、仮に意知が若年寄に加わっていなければ、今年、今月の場合、今月の月番若年寄は酒井忠休であるので、忠休を除いた3人、即ち、太田資愛と加納久堅、そして米倉昌晴がそのまま、豫参に選ばれた筈であった。
それがそこへ新たに意知が若年寄に加わったが為に、忠休が口にした通り、
「その煽りを受け…」
資愛が弾き飛ばされてしまったのだ。
尤も、それならば何も資愛が弾き飛ばされずとも、加納久堅や、或いは米倉昌晴が弾き飛ばされても良かった筈だ。
否、それ以前に意知自身が豫参に選ばれなければ良かったのだが、しかしそうはならなかったのには理由があった。
資愛が若年寄に列なったのは3年前の天明元(1781)年9月のことであり、明くる天明2(1782)年正月10日には資愛は早速にも豫参に選ばれた。
新任の若年寄が次の年の正月10日の豫参に選ばれるのが、これまた仕来りであり、それは宝暦11(1761)年8月に若年寄に任じられた酒井忠休にしても同じであった。
忠休もまた宝暦11(1761)年8月に若年寄に任じられるや、明くる宝暦12(1762)年正月10日の豫参に選ばれたのであった。
それ故、去年の天明3(1783)年11月に若年寄に任じられた意知が明くる、つまりは今年、天明4(1784)年正月10日の豫参に選ばれるのは至極当然のことであった。
そして資愛が若年寄に任じられた天明元(1781)年9月の時点では意知は未だ若年寄には加わってはおらず、しかしその代わり松平伊賀守忠順が存命であった。
松平忠順が存命であった折にはこの忠順が若年寄の首座であったのだが、明くる天明2(1782)年の正月、月番若年寄は酒井忠休であった為に、そこで正月10日の豫参には酒井忠休と太田資愛を除く、松平忠順と加納久堅、米倉昌晴の中から2人が選ばれることになった。
忠休は月番である為に豫参には選ばれず、それとは逆に資愛は新任の若年寄として豫参に選ばれるのが確定しており、そこで残る「2枠」を忠順と久堅、昌晴の3人で争う格好になった訳だ。
否、実際には輪番制であり、その年―、天明2(1782)年正月10日の豫参には忠順と久堅が選ばれ、昌晴が弾き飛ばされた。
それ故、更にその翌年、天明3(1783)年の正月10日には本来ならば忠順と久堅、そして昌晴の3人が豫参に選ばれる筈であった。
天明3(1783)年の正月もまた、巡り合わせが悪く、忠休がまたしても月番であり、豫参には選ばれず、一方、資愛もまたその前年に新任の若年寄として豫参に選ばれたばかりであるので、やはり豫参には選ばれず、そこで残る3人の若年寄、即ち、忠順と久堅、そして昌晴の3人が豫参に選ばれる筈であった。
だが実際にはこの年―、天明3(1783)年の正月10日は生憎の雪であり、恒例の将軍の東叡山への御詣は取止めとなった。
将軍の御詣が中止になった以上、豫参は成立たず、やはり中止となった。
それから一月も経たない天明3(1783)年2月8日に首座の忠順が卒した為に若年寄の定員は4人に減り、それと同時に勝手掛を兼ねていた忠休が首座も兼ねる様になった。
これでその年―、天明3(1783)年11月に意知が新たに若年寄に加わらずに若年寄の定員が4人のまま、天明4(1784)年を迎えていれば、それも正月10日を過ぎてさえいれば、月番若年寄の忠休を除いた資愛と久堅、そして昌晴の3人がそのまま豫参に選ばれたものを、意知が新たに若年寄に加わったが為に資愛が弾き飛ばされてしまったのだ。
否、百歩譲って、一昨年、去年と月番ではなかったにもかかわらず、或いは生憎の天候により豫参の機会を逃がし続けた昌晴が今年―、明後日の豫参に選ばれるのは当然としても、何故、久堅までが選ばれたのか、その点だけは資愛もどうにも我慢がならなかった。
資愛は一昨年の天明2(1782)年の正月10日には新任若年寄として豫参に自動的に選ばれたので、今年―、明後日の豫参には選ばれなかった訳だが、それならば久堅とて立場は資愛と同じの筈であった。
久堅もまた一昨年の正月10日の豫参には選ばれた訳だから、明後日の豫参には久堅が弾き飛ばされても良かった筈だからだ。
だが実際に弾き飛ばされたのは資愛であり、資愛はその点が納得出来なかったのだ。
否、それもよくよく考えればそう難しい話ではない。
それと言うのも去年、雪の為に中止となった正月10日の将軍・家治の東叡山への御詣だが、その豫参として若年寄からは今は亡き忠順とそれに久堅と昌晴の3人が選ばれていたにもかかわらず、雪の為に豫参が叶わなかったのだ。
その様な経緯から、今年、明後日の豫参には忠順に代わって新任の若年寄の意知が自動的に選ばれ、それに去年、豫参する筈であった久堅と昌晴の二人がこれまた、
「自動的に…」
豫参に選ばれた訳で、これもまた輪番制による。
資愛もそれは頭では理解していたものの、しかし感情がどうにも理解に追着かなかった。
尤も、それでも資愛は忠休よりは分別があるので、忠休の様に己の内心をぶちまける様な真似はしなかった。
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