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若年寄首座にして勝手掛を兼ねる酒井石見守忠休は正月10日の将軍の東叡山への御詣の豫参に選ばれず、豫参に選ばれた田沼意知を逆怨みする。

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 1月8日、新番頭しんばんがしら松平まつだいら忠香ただよし御城えどじょうへと登城とじょうすると、詰所つめしょである新番所しんばんしょへとはいり、そこで佐野さの善左衛門ぜんざえもんつかまえると、善左衛門ぜんざえもん廊下ろうかへと引張ひっぱした。

「これを…」

 忠香ただよし善左衛門ぜんざえもん新番所前しんばんしょまえ廊下ろうかへと引張ひっぱすと懐中かいちゅうより一枚いちまい紙切かみきれを取出とりだし、それを善左衛門ぜんざえもんへと押付おしつけた。

 すると善左衛門ぜんざえもんぐには紙切かみきれの中身なかみあらためずに、「これは…」と忠香ただよしたずねた。

「されば山城守やましろのかみさま直筆じきひつ受領書じゅりょうしょぞ…」

 忠香ただよしこえひそませてそうこたえると、善左衛門ぜんざえもんようやくに、それもあわてて紙切かみきれの中身なかみあらためた。

 成程なるほど、その紙切かみきれには如何いかにも、

若年寄わかどしより田沼たぬま意知おきとも佐野さの善左衛門ぜんざえもんより金子きんす200両を受取うけとった…」

 昨日きのうの1月7日の日付ひづけともにそうしたためられていた。

 それはりもなおさず、忠香ただよし昨日きのう早速さっそくにも神田橋かんだばし門内もんないにある田沼家たぬまけ上屋敷かみやしきへとあしはこび、そして善左衛門ぜんざえもん忠香ただよしあずけた200両を意知おきともへとわたしてくれたことを意味いみしていた。

 いや、それだけではない。忠香ただよし意知おきともたいして、佐野さの善左衛門ぜんざえもんのことを売込うりこむこともわすれなかったそうな。

「さればこの忠香ただよし、そなたがことを…、新番しんばん3番組ばんぐみと4番組ばんぐみ扈従こしょうせしつぎ放鷹ほうようにおいて、3番組ばんぐみよりは佐野さの善左衛門ぜんざえもん供弓ともゆみ推挙すいきょしてくれるよう山城守やましろのかみさましかたのもうしたゆえ、これでそなたがつぎ放鷹ほうようにおいて供弓ともゆみえらばれるはほぼ、間違まちがいなかろうて…」

 忠香ただよし善左衛門ぜんざえもんにそうささやいた。

 無論むろん、そんな事実じじつはない。

 佐野さの善左衛門ぜんざえもん忠香ただよしあずけた金子きんす200両は忠香ただよしとそれに田沼家臣たぬまかしん村上むらかみ半左衛門はんざえもん勝之進かつのしん父子ふしとで山分やまわけしてしまい、意知おきともにはそれこそ、

「びた一文いちもん…」

 わたってはおらず、それゆえ忠香ただよし意知おきとも佐野さの善左衛門ぜんざえもん供弓ともゆみ推挙すいきょした事実じじつもない。

 だが佐野さの善左衛門ぜんざえもんはそうともらず、忠香ただよし言葉ことばけ、てんにものぼ心地ここちがした。

 そのうえ善左衛門ぜんざえもん明日あす9日は当番とうばんであるのだが、それもまた、

てんにものぼ心地ここち…」

 それに拍車はくしゃをかけた。

 それと言うのも明日あす9日には過日かじつ鷹狩たかがりはじめにおいて見事みごとがん仕留しとめた遠山とおやま大三郎だいざぶろう筒井左膳つついさぜん両名りょうめいたいし、その褒美ほうびとして将軍しょうぐん家治いえはるより時服じふくおくられる予定よていであったからだ。

 これでかり善左衛門ぜんざえもん明日あす9日の「勤務シフト」が朝五つ(午前8時頃)より昼八つ(午後2時頃)までの朝番あさばんであったならば、遠山とおやま大三郎だいざぶろう筒井左膳つついさぜんわば、「晴舞台はれぶたい」にいやでも向合むきあわざるをない。時服じふく受渡うけわたしはその時間帯じかんたいすなわち、朝五つ(午前8時頃)より昼八つ(午後2時頃)までのあいだおこなわれるからだ。

 だが実際じっさいには善左衛門ぜんざえもん明日あす9日の「勤務シフト」は時服じふく受渡うけわたしをえた昼八つ(午後2時頃)よりはじまる当番とうばんであるので、時服じふく受渡うけわたしをずにむというものであった。

 それゆえ善左衛門ぜんざえもんつぎ鷹狩たかがりの供弓ともゆみ内定ないていしたよろこびにくわえて、あか他人たにんの「晴舞台はれぶたい」をずにむことでそのよろこびがした。

 これであか他人たにんの「晴舞台はれぶたい」をけられては、折角せっかくよろこび―、つぎ鷹狩たかがりにおける供弓ともゆみ内定ないていしたよろこびも半減はんげんするところであった。

 かくして善左衛門ぜんざえもん忠香ただよしおおいに感謝かんしゃし、その一日中いちにちじゅう上機嫌じょうきげんであった。

 そんな善左衛門ぜんざえもん正反対せいはんたい不機嫌ふきげんであったのが若年寄わかどしよりの、それも首座しゅざ勝手かってがかりねる筆頭ひっとう酒井さかい石見守いわみのかみ忠休ただよしヒラ太田おおた備後守びんごのかみ資愛すけよし二人ふたりであり、とりわけ酒井さかい忠休ただよし不機嫌ふきげんであった。

 それは明後日あさって東叡山とうえいさんへのまいり起因きいんする。

 すなわち、明後日あさっての10日―、正月しょうがつ10日は毎年まいとし将軍しょうぐんみずか上野うえの東叡山とうえいざん寛永寺かんえいじへとまいりあしはこであった。

 無論むろん将軍しょうぐん一人ひとりまいりさせるわけにはゆかない。老中ろうじゅう若年寄わかどしよりなども豫参よさん将軍しょうぐんしたがい、一緒いっしょもうでる。

 その毎年恒例まいとしこうれいとも言える正月しょうがつ10日の、将軍しょうぐん東叡山とうえいざん寛永寺かんえいじへのまいりにおける豫参よさん今年ことしなん若年寄わかどしよりからは田沼たぬま意知おきともえらばれたのであった。

 将軍しょうぐんまいりにおける豫参よさん老中ろうじゅう若年寄わかどしよりにとってはまさに、「晴舞台はれぶたい」であり、それが一年いちねんでも最初さいしょ東叡山とうえいざん寛永寺かんえいじへのまいりにおける豫参よさんともなれば尚更なおさらであった。

 だがその豫参よさん酒井さかい忠休ただよし太田おおた資愛すけよし二人ふたりはずされていた。

 それは今朝けさのことであった。月番つきばん老中ろうじゅう田沼たぬま意次おきつぐより明後日あさって東叡山とうえいざん寛永寺かんえいじへと豫参よさんすべき若年寄わかどしより発表はっぴょうされたのだが、そこに酒井さかい忠休ただよし太田おおた資愛すけよしはなかった。

 すなわち、意次おきつぐによってその読上よみあげられたのは加納かのう遠江守とおとうみのかみ久堅ひさかた米倉よねくら丹後守たんごのかみ昌晴まさはる、そして意次おきつぐそく意知おきともの3人だけであったのだ。

 それゆえ酒井さかい忠休ただよし太田おおた資愛すけよし二人ふたり気分きぶんがいした。

 こと忠休ただよし場合ばあい不機嫌ふきげんとおして、これまでにない屈辱感くつじょくかんおそわれた。

 それはひとえ意知おきとも所為せいと言えた。

はれ豫参よさん何故なにゆえ筋目すじめただしきこのおれえらばれず、こともあろうにどこぞのうまほねともからぬ盗賊とうぞく同然どうぜん下賤げせんなる成上なりあがりもの小倅こせがれえらばれねばならぬのだ…」

 それこそが忠休ただよし不機嫌ふきげん屈辱感くつじょくかん原因げんいんであり、忠休ただよしはそれがこうじて意知おきともうらみの感情かんじょうさえいた。

 いや、それは完全かんぜんなる逆怨さかうらみであるのだが、忠休ただよしはそんなことは「おかまいなし」であった。

 一方いっぽう太田おおた資愛すけよし酒井さかい忠休ただよしおなじく豫参よさんえらばれずに気分きぶんがいし、不機嫌ふきげんになったものの、しかし忠休ただよしのそのあまりの不機嫌ふきげんさをたりにして、忠休ただよしつかわねばならず、おのれ不機嫌ふきげんさなど雲散霧消うんさんむしょうしたほどであった。

 ひるになり、老中ろうじゅうの「まわり」をえたうま下刻げこくすなわち、ひるの九つ半(午後1時頃)、若年寄わかどしより昼食ちゅうしょくるべくしも部屋べやへとかった。

 そこで若年寄わかどしより各々おのおのしも部屋べやにて昼食ちゅうしょくわけだが、太田おおた資愛すけよしかせて、すこしでも忠休ただよし機嫌きげんるべく、と言うよりは慰撫いぶすべく、おのれ弁当べんとうかかえて忠休ただよししも部屋べやへとがった。

一緒いっしょ弁当べんとうべてくれませんか…」

 資愛すけよしひくうして、忠休ただよしにそうたのんだのであった。

 忠休ただよしひるまでずっと不機嫌ふきげんであり、それは若年寄わかどしより執務しつむにも差支さしつかえるほどであった。

 忠休ただよし何故なにゆえ不機嫌ふきげんなのか、それはだれもがかっていた。

豫参よさんえらばれず、それで機嫌きげんななめなのだな…」

 ほか若年寄わかどしよりみな、そうと気付きづいており、同時どうじ忠休ただよしのその幼児性ようじせいには心底しんそこあきてたるものであった。資愛すけよしでさえもそうであった。

 そこで資愛すけよしほか若年寄わかどしより成代なりかわり、昼飯ひるめし機会きかい利用りようして忠休ただよし機嫌きげんることにしたのだ。

 それならばなに太田おおた資愛すけよしでなくともさそうにおもえるが、しかし、ほか若年寄わかどしよりではあま意味いみがなかった。

 それと言うのも資愛すけよし以外いがいの―、正確せいかくには忠休ただよし資愛すけよし以外いがい若年寄わかどしよりと言えば、加納かのう久堅ひさかた米倉昌晴よねくらまさはる、それに意知おきともの3人しかおらず、この3人はみな豫参よさんえらばれた面々めんめんであり、そんな彼等かれら忠休ただよしの「機嫌きげん」をろうにも、あま効果こうか見込みこめなかった。

 なにしろ忠休ただよし豫参よさんえらばれず、それゆえ不機嫌ふきげん、どころか意知おきとも殺意さついまで始末しまつであり、そんな忠休ただよしたいして、忠休ただよしとは正反対せいはんたい豫参よさんえらばれた久堅ひさかたたちが忠休ただよしなぐさめたところで、忠休ただよし素直すなおみみかたむけるともおもえなかった。

 それどころか幼児性ようじせい丸出まるだしの忠休ただよしのことである。厭味いやみかと、そう受取うけとおそれさえあった。

 そこで忠休ただよしとはおな立場たちば資愛すけよし忠休ただよしなぐさめることにし、そこで資愛すけよし弁当べんとうかかえて忠休ただよししも部屋べやへとあしはこんでは、一緒いっしょ昼飯ひるめしべてくれませんかと、そうひくうしてたのんだ次第しだいであった。

 すると忠休ただよし相手あいて資愛すけよしともなると胸襟きょうきんひらき、「ああ…、かろう」とこれをゆるした。

「いやはや…、この資愛すけよし今年ことし豫参よさんにはえらばれず、無念むねんでござる…」

 資愛すけよし忠休ただよし昼食ちゅうしょくべながらそう切出きりだした。

 いやじつのところ資愛すけよしいまとなってはそれほど無念むねんではなかった。

 無論むろん資愛すけよしとて最初さいしょ忠休ただよしおなじく、豫参よさんえらばれず、それゆえ無念むねんおもい、不機嫌ふきげんにもなったが、忠休ただよしあまりの剣幕けんまくたりにして不機嫌ふきげんさとともに、無念むねんさも雲散霧消うんさんむしょうした。

 それゆえ資愛すけよしいまとなってはそれほど無念むねんではなかった。

 むしろ無念むねんという表現ひょうげん忠休ただよしにこそまるであろう。

 だがここで資愛すけよし忠休ただよしたいして、

豫参よさんえらばれずに残念ざんねんでしたね…」

 そのようかたりかければ、幼児性ようじせい丸出まるだしの忠休ただよしのことである。おのれむねうち見透みすかされて、かお強張こわばらせてはさら不機嫌ふきげんとなるのは必定ひつじょういや、それどころか忠休ただよし資愛すけよしにまで憎悪ぞうお感情かんじょうけてくるやもれなかった。

 資愛すけよしはその危険性リスク回避かいひすべく、そこで我事わがこととして、つまりは自分じぶん豫参よさんえらばれずに無念むねんおもっていますと、忠休ただよしにそうかたりかけたのであった。

 これならば忠休ただよしからかる憎悪ぞうおけられる危険性リスクもない。

 実際じっさい資愛すけよし忠休ただよしにそうかたりかけるや、忠休ただよし表情ひょうじょうゆるめ、

「それはこの忠休ただよしとておなじよ…」

 おのれむねうち素直すなおかしたものである。

 資愛すけよし忠休ただよし素直すなお胸襟きょうきんひらいてくれたことで、内心ないしん、ホッとするとさら畳掛たたみかけた。

「なれど…、酒井さかい殿どの今月こんげつ月番つきばんにて、されば豫参よさんえらばれずともいたかたなく…」

 老中ろうじゅうにしろ若年寄わかどしよりにしろ、正月しょうがつ月番つきばんものくだん正月しょうがつ10日の豫参よさんにはえらばれない。

 そして今月こんげつ―、正月しょうがつ若年寄わかどしよりにおいては酒井さかい忠休ただよし月番つきばんであり、それゆえもとより忠休ただよし豫参よさんにはえらばれる余地よちがなく、資愛すけよしはそのてん指摘してきしたのであった。

 忠休ただよしもそのてんかっていたが、しかし、それでもどうにもゆるせなかったのはひとえ意知おきとも存在そんざい起因きいんする。

 すなわち、意知おきとも若年寄わかどしよりなかでもただ一人ひとり月番つきばん免除めんじょされており、これでかり意知おきともほか若年寄わかどしより同様どうよう月番つきばんつとめることが義務付ぎむづけられていたならば、今月こんげつ意知おきとも月番つきばんつとめていたやもれず、

「その場合ばあい、このおれこそが意知おきともわって豫参よさんえらばれていたはずなのに…」

 忠休ただよしはそうおもわずにはいられず、それゆえ、どうにもゆるせなかったのだ。

 いやはや牽強付会けんきょうふかい逆怨さかうらみもいところであったが、しかし忠休ただよしはそうはかんがえず、それどころか正当せいとうなるいかりであるとしんじてうたがわなかった。

 もっとも、忠休ただよしがここまで追込おいこまれても仕方しかたのないめんはあった。

 それと言うのもめぐわせがわるかったのか、去年きょねん一昨年おととし忠休ただよし正月しょうがつ月番つきばんであり、それゆえ忠休ただよし最後さいご正月しょうがつ10日の豫参よさんえらばれたのは3年前の天明元年、と言うよりは安永元(1781)年であった。

 忠休ただよしはそのため意知おきともあらたに若年寄わかどしよりくわわった去年きょねん、天明3(1783)年11月の時点じてんでは、

来年らいねんこそは…」

 天明4(1784)年の正月しょうがつ10日の豫参よさんえらばれるにちがいないと、そう期待きたいいや確信かくしんした。

 だがそれが意知おきともがこともあろうに月番つきばん免除めんじょされたために、忠休ただよしはまたしても正月しょうがつ月番つきばんつとめる羽目はめとなり、それがために、

「またしても…」

 正月しょうがつ10日の豫参よさんえらばれず、忠休ただよしとしては月番つきばん免除めんじょされた意知おきともうらまずにはいられなかった。

「そなたとて…、いや、そなたの場合ばあいはそもそも月番つきばんではないのだから、豫参よさんえらばれてしかるべきであろうがっ!」

 忠休ただよし元々もともと地声じごえがでかいが、それがいま興奮こうふんしているらしく、さら声量せいりょうした。

 資愛すけよしとしてはこの場合ばあい、「まぁまぁ」となだめるべきところであったやもれぬが、しかしそんなことをすれば逆効果ぎゃくこうかかえって忠休ただよしの「ヴォルテージ」をげてしまうことになりかねないと、資愛すけよしにはそれがめていたので、そこで忠休ただよしうにまかせたのであった。

「そなたとて、そうであろうがっ。いや、そなたの場合ばあい、この忠休ただよしとはちごうて、今月こんげつ月番つきばんではないゆえ豫参よさんえらばれていてもおかしゅうはなかったのだっ。それが…、あの下賤げせんなる成上なりあがりものめが小倅こせがれ我等われら若年寄わかどしよりまぎんだがために、そなたまでそのあおりをけて明後日あさって豫参よさんからはじばされてしまったではないかっ」

 忠休ただよしのそのあまりにこえひびかせた「怪気炎かいきえん」には資愛すけよし流石さすがにハラハラさせられた。意知おきともみみはいりはしないかと、資愛すけよしはそれをあんじてハラハラさせられたのだ。

 さいわい、意知おきとも今日きょう御殿ごてん勘定所かんじょうしょにおいて勘定かんじょう奉行ぶぎょう勘定かんじょう吟味ぎんみやく、それに勘定かんじょう組頭くみがしらといった勘定かんじょうがた役人やくにん昼飯ひるめしっていた。

 意知おきとも若年寄わかどしより一人ひとりとして老中ろうじゅうが「まわり」をえたうま下刻げこくすなわち、ひるの九つ半(午後1時頃)になるとほか若年寄わかどしより―、忠休ただよし資愛すけよしらとともにここしも部屋べやへとあしはこぶ。しも部屋べや昼飯ひるめし用意よういされているからだ。

 だが意知おきともはその昼飯ひるめしかかえてしも部屋べやから御殿ごてん勘定かんじょうしょへとあしはこぶのを日課にっかとしていた。

 意知おきともとしてはほか若年寄わかどしより昼飯ひるめしうよりは実務じつむ幕僚ばくりょうである勘定かんじょうがた役人やくにん昼飯ひるめしほうはるかに有意義ゆういぎおもえたからであろう。

 それゆえしも部屋べやには意知おきとも不在ふざいであり、忠休ただよしの「怪気炎かいきえん」が御殿ごてん勘定かんじょうしょにいる意知おきともみみにまでとどくことはないだろうが、しかしそれとて限度げんどがあろう。

 若年寄わかどしよりしも部屋べや御殿ごてん勘定かんじょうしょとはそれほどはなれているわけではないからだ。

 もっとも、意知おきとも場合ばあい忠休ただよしの「怪気炎かいきえん」など歯牙しがにもけぬやもれなかった。意知おきとももとより、忠休ただよしをまともに相手あいてにはしていなかったからだ。

 もっと言えば完全かんぜん小馬鹿こばかにしていた。

 忠休ただよし若年寄わかどしよりなかでも首座しゅざ勝手かってがかりねており、

名実共めいじつともに…」

 若年寄わかどしより筆頭ひっとうであったが、意知おきともはそんな忠休ただよし小馬鹿こばかにしていた。

 意知おきとも能力のうりょく忠休ただよしのそれを完全かんぜん凌駕りょうがしてしまっていたからだが、それは傍目はためからも―、資愛すけよしたちほか若年寄わかどしよりにもかんじられた。

 無論むろんとう本人ほんにんたる忠休ただよしもそのことはだれよりも、

「ヒシヒシと…」

 かんじられ、意知おきともにくんでいた。

 意知おきとももまた、無論むろん、それは承知しょうちしていたので、そのよう忠休ただよしから今更いまさらなにを言われたところで意知おきともはビクともしないであろう。

 それはともあれ、忠休ただよし言分いいぶんには一理いちりはあった。

 すなわち、意知おきともあらたに若年寄わかどしよりにんじられなければ、資愛すけよし明後日あさって豫参よさんえらばれていた可能性かのうせいきわめてたかかったからだ。それは忠休ただよしではない。

 それと言うのも、去年きょねんの天明3(1783)年11月に奏者番そうじゃばんであった意知おきともあらたに若年寄わかどしよりくわわるまでは若年寄わかどしより定員ていいんは4人であった。

 一方いっぽう正月しょうがつ10日の豫参よさんだが、若年寄わかどしよりからは3人が豫参よさんえらばれるのが仕来しきたりであった。

 それゆえかり意知おきとも若年寄わかどしよりくわわっていなければ、今年ことし今月こんげつ場合ばあい今月こんげつ月番つきばん若年寄わかどしより酒井さかい忠休ただよしであるので、忠休ただよしのぞいた3人、すなわち、太田おおた資愛すけよし加納かのう久堅ひさかた、そして米倉昌晴よねくらまさはるがそのまま、豫参よさんえらばれたはずであった。

 それがそこへあらたに意知おきとも若年寄わかどしよりくわわったがために、忠休ただよしくちにしたとおり、

「そのあおりをけ…」

 資愛すけよしはじばされてしまったのだ。

 もっとも、それならばなに資愛すけよしはじばされずとも、加納かのう久堅ひさかたや、あるいは米倉昌晴よねくらまさはるはじばされてもかったはずだ。

 いや、それ以前いぜん意知おきとも自身じしん豫参よさんえらばれなければかったのだが、しかしそうはならなかったのには理由わけがあった。

 資愛すけよし若年寄わかどしよりつらなったのは3年前ねんまえの天明元(1781)年9月のことであり、くる天明2(1782)年正月しょうがつ10日には資愛すけよし早速さっそくにも豫参よさんえらばれた。

 新任しんにん若年寄わかどしよりつぎとし正月しょうがつ10日の豫参よさんえらばれるのが、これまた仕来しきたりであり、それは宝暦11(1761)年8月に若年寄わかどしよりにんじられた酒井さかい忠休ただよしにしてもおなじであった。

 忠休ただよしもまた宝暦11(1761)年8月に若年寄わかどしよりにんじられるや、くる宝暦12(1762)年正月しょうがつ10日の豫参よさんえらばれたのであった。

 それゆえ去年きょねんの天明3(1783)年11月に若年寄わかどしよりにんじられた意知おきともくる、つまりは今年ことし、天明4(1784)年正月しょうがつ10日の豫参よさんえらばれるのは至極しごく当然とうぜんのことであった。

 そして資愛すけよし若年寄わかどしよりにんじられた天明元(1781)年9月の時点じてんでは意知おきともいま若年寄わかどしよりにはくわわってはおらず、しかしそのわり松平まつだいら伊賀守いがのかみ忠順ただより存命ぞんめいであった。

 松平まつだいら忠順ただよし存命ぞんめいであったおりにはこの忠順ただよし若年寄わかどしより首座しゅざであったのだが、くる天明2(1782)年の正月しょうがつ月番つきばん若年寄わかどしより酒井さかい忠休ただよしであったために、そこで正月しょうがつ10日の豫参よさんには酒井さかい忠休ただよし太田おおた資愛すけよしのぞく、松平まつだいら忠順ただより加納かのう久堅ひさかた米倉昌晴よねくらまさはるなかから2人がえらばれることになった。

 忠休ただよし月番つきばんであるため豫参よさんにはえらばれず、それとはぎゃく資愛すけよし新任しんにん若年寄わかどしよりとして豫参よさんえらばれるのが確定かくていしており、そこでのこる「2わく」を忠順ただより久堅ひさかた昌晴まさはるの3人であらそ格好かっこうになったわけだ。

 いや実際じっさいには輪番制りんばんせいであり、そのとし―、天明2(1782)年正月しょうがつ10日の豫参よさんには忠順ただより久堅ひさかたえらばれ、昌晴まさはるはじばされた。

 それゆえさらにその翌年よくねん、天明3(1783)年の正月しょうがつ10日には本来ほんらいならば忠順ただより久堅ひさかた、そして昌晴まさはるの3人が豫参よさんえらばれるはずであった。

 天明3(1783)年の正月しょうがつもまた、めぐわせがわるく、忠休ただよしがまたしても月番つきばんであり、豫参よさんにはえらばれず、一方いっぽう資愛すけよしもまたその前年ぜんねん新任しんにん若年寄わかどしよりとして豫参よさんえらばれたばかりであるので、やはり豫参よさんにはえらばれず、そこでのこる3人の若年寄わかどしよりすなわち、忠順ただより久堅ひさかた、そして昌晴まさはるの3人が豫参よさんえらばれるはずであった。

 だが実際じっさいにはこのとし―、天明3(1783)年の正月しょうがつ10日は生憎あいにくゆきであり、恒例こうれい将軍しょうぐん東叡山とうえいざんへのまいり取止とりやめとなった。

 将軍しょうぐんまいり中止ちゅうしになった以上いじょう豫参よさん成立なりたたず、やはり中止ちゅうしとなった。

 それから一月ひとつきたない天明3(1783)年2月8日に首座しゅざ忠順ただよりしゅっしたため若年寄わかどしより定員ていいんは4人にり、それと同時どうじ勝手かってがかりねていた忠休ただよし首座しゅざねるようになった。

 これでそのとし―、天明3(1783)年11月に意知おきともあらたに若年寄わかどしよりくわわらずに若年寄わかどしより定員ていいんが4人のまま、天明4(1784)年をむかえていれば、それも正月しょうがつ10日をぎてさえいれば、月番つきばん若年寄わかどしより忠休ただよしのぞいた資愛すけよし久堅ひさかた、そして昌晴まさはるの3人がそのまま豫参よさんえらばれたものを、意知おきともあらたに若年寄わかどしよりくわわったがため資愛すけよしはじばされてしまったのだ。

 いや百歩ひゃっぽゆずって、一昨年おととし去年きょねん月番つきばんではなかったにもかかわらず、あるいは生憎あいにく天候てんこうにより豫参よさん機会チャンスがしつづけた昌晴まさはる今年ことし―、明後日あさって豫参よさんえらばれるのは当然とうぜんとしても、何故なにゆえ久堅ひさかたまでがえらばれたのか、そのてんだけは資愛すけよしもどうにも我慢がまんがならなかった。

 資愛すけよし一昨年おととしの天明2(1782)年の正月しょうがつ10日には新任しんにん若年寄わかどしよりとして豫参よさん自動的じどうてきえらばれたので、今年ことし―、明後日あさって豫参よさんにはえらばれなかったわけだが、それならば久堅ひさかたとて立場たちば資愛すけよしおなじのはずであった。

 久堅ひさかたもまた一昨年おととし正月しょうがつ10日の豫参よさんにはえらばれたわけだから、明後日あさって豫参よさんには久堅ひさかたはじばされてもかったはずだからだ。

 だが実際じっさいはじばされたのは資愛すけよしであり、資愛すけよしはそのてん納得なっとく出来できなかったのだ。

 いや、それもよくよくかんがえればそうむずかしいはなしではない。

 それと言うのも去年きょねんゆきため中止ちゅうしとなった正月しょうがつ10日の将軍しょうぐん家治いえはる東叡山とうえいざんへのまいりだが、その豫参よさんとして若年寄わかどしよりからはいま忠順ただよりとそれに久堅ひさかた昌晴まさはるの3人がえらばれていたにもかかわらず、ゆきため豫参よさんかなわなかったのだ。

 そのよう経緯いきさつから、今年ことし明後日あさって豫参よさんには忠順ただよりわって新任しんにん若年寄わかどしより意知おきとも自動的じどうてきえらばれ、それに去年きょねん豫参よさんするはずであった久堅ひさかた昌晴まさはる二人ふたりがこれまた、

自動的じどうてきに…」

 豫参よさんえらばれたわけで、これもまた輪番制りんばんせいによる。

 資愛すけよしもそれはあたまでは理解りかいしていたものの、しかし感情かんじょうがどうにも理解りかい追着おいつかなかった。

 もっとも、それでも資愛すけよし忠休ただよしよりは分別ふんべつがあるので、忠休ただよしようおのれ内心ないしんをぶちまけるよう真似マネはしなかった。
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