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15章 祈り(後)
46話 先生(後)
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右手中指と薬指がちぎれて落ちた。
痛みをほとんど感じなかった――どうやら神経が死につつあるようだ。
ちぎれてなくなった部分は公園の花壇の土を使って補修し、落ちた指は水魔法で保護して持ち帰った。
禁呪の魔器にするためだ――術者自身の肉体は、何よりも強力な魔器となる。だが、それだけでは足りないかもしれない。
この指の他にもうひとつ、威力が高い上に手軽に使える身体の器官があった。
髪だ――色・量・長さによって魔力の含有量が変わり、中でもノルデン人特有の漆黒の髪は、とりわけ強い魔力を持つ。
気味悪さの演出のために腰まで伸ばしていたが、もう必要ない。
肩より上の所まで短くしたのは久しぶりだ。首元が少し寒い。
肉体の中で最も強力な魔器は明日のために取っておく。
指2本、漆黒の髪、そして額の紋章に、赤い眼――これで大抵の理は破れる。
寿命が近いが魔力に衰えはない。むしろ、高まっている。
……これなら……。
◇
"捧げ物"をして転移魔法の威力を増幅させ、「聖バルバラ宮」へ飛んだ。
ミランダ教の大聖堂に隣接する宮殿だ――在任中の教皇が、そこで暮らしている。
このような重要な施設には純度の高い影の魔石が設置してあり、転移魔法で内部に入り込むことはできない。だが、贄のおかげでその理を破ることができた。
今目の前には、大きな"樹"がそびえ立っている。
昔よく見た、大きな樹――そのふもとで、ミハイール・モロゾフが静かに眠っている……。
樹にはところどころ朽ちている箇所があるが、幹や梢に大きな損傷は見られない。
シリルを始めとした高位司祭が尽力しているからかもしれない。
「…………」
杖を手に念じると、微弱な癒やしの光がミハイールを包んだ。
今の僕にはこれが限界だ――この寝所へ飛ぶために禁呪を使い、使用人や守衛に催眠魔法を施している。
ここから転移魔法で脱出することを考えると、無理はできない。
しばらくすると、変色して落ちそうになっていた葉が2、3枚緑色になった。
(やはり、この程度か……)
樹を見上げると、あの血の色をした葉が今も変わらずくっついていた。
過去の記憶、感情を示す"葉"――この人はそれらを捨て去ることなく、ずっと持ち続けている。
この大樹は、ミハイール・モロゾフという人間の歴史を証明するもの。
……この樹を見るのが、好きだった……。
「……う……っ」
「!!」
ミハイールが呻き声を上げながら、顔を左右に振った。
閉じた目にギュッと力が込められ、同時にその目がゆっくりと開いていく……。
「……!」
――いけない、早くここを……。
「…………」
(いいか……)
杖を持つ手を下ろした。
――もはや僕という人間は、わずかな者の心にしか存在しない。当然、この人の心からも消えている。
僕のことなど忘れ去ったこの人の命で、「世を乱した赤眼の逆賊」として捕らえられ処刑される。
僕に似合いの、惨めな結末じゃないか――……。
「……イリ……アス……?」
「!!」
顔をこちらに向けて、ミハイールがつぶやく。
しかしその目は焦点を定めておらず、僕を映しているとは言えない。
どうやら、夢と現を彷徨っている状態のようだ――開いた眼が、再びゆっくり閉じていく。
「…………」
帰らねばならないのに、僕はその場から動けなくなってしまった。
――動けるはずがない。だって今、名前を呼ばれたんだ。
僕はもう他者の心の中に存在できない。酒場の店主、宿屋の主人、そして司祭シリル……ここ数日何度も出会い、会話もした。でも、次の日には皆僕をすっかり忘れている。
それなのに、今……。
――……ミハイール先生! 僕の名前は、"イリアス・トロンヘイム"ですか?
「…………」
――君の名は"イリアス・トロンヘイム"――それ以外の君を、私は知らないよ。
「っ……」
――たとえ君が何者であったとしても、私は変わらない――……。
「……せん、せい、……先生……!」
――涙が止まらない。
真理を受け継いでから、疑問に思っていたことがあった。
どうしてシモンからロゴスを押しつけられたあと、先生の教会へ戻ったのか。また、どうして名前を書きかえられず、記憶も消えなかったのか。
教会へ戻ったのは、日々の習慣からくる無意識下の行動だろう。
記憶が消えなかったのは、額の紋章の力――神の恩寵にちがいない。
そういう風に結論づけて、以降は考えないことにした。
だが、今分かった。
僕が教会に戻ったのは、先生に助けを求めていたからだ。
僕が消えなかったのは、先生が僕の名前を呼んだからだ。
意識の闇の海に溶け込み消えかかっている僕の存在を、先生が証明してくれたんだ。
魂を形作る呪文――真名を、呼んで……。
「せんせい……ミハイール、先生……っ」
嗚咽するしかできない。涙で視界が歪んで、樹も先生の顔も見えない。
先生の返答はない――やはり、半覚醒状態であるからだろう。
「……先生。風邪を、……引きますよ……」
喉からようやくそれだけ絞り出し、めくれていたシーツをかぶせる。
少し苦しそうに呻いたので、杖を掲げて催眠魔法を施した。弱っているからか、魔力をあまり込めずとも眠らせることができた。
――もういい。
最後にこの樹を見ることができた。先生は僕をずっと覚えていた。
……十分だ。思い残すことはもう、何も……。
――『世話になった人に、料理を振る舞う。それで、なんでもない話をして、礼を言って別れる』……。
「…………」
……不意に、ジャミル・レッドフォードの言葉が頭をよぎった。
最初の2つはともかく、礼を言うことならできる。
だがそれは、あの青年自身の人生経験から考え抜いた行動であり、僕の望みではない。
それなら、僕自身の人生経験からくる「この人に伝えたい言葉」は何だろう。
――思い出せ。この人の前で僕は、どういう人間だった?
従順で礼儀正しい優等生、未来の司祭候補、下級生に優しいお兄さん――"端役"を演じるより前から、僕はそういう自分を演出していた。
でも、一度だけ……。
『イリアス。今日の舞台は、どうだったかな』
『特に何も思いません』
『……つまらなかったかな?』
『あんなのは所詮虚構ではないですか。何が面白いのか分かりません』
『舞台には、たくさんの人生があるよ。私はそれを見るのが楽しい」
『人生? ……役の衣装を着た人間が、本に書かれたセリフをただ読んでいるだけでしょう』
(ああ、そうだ……)
――僕は、先生に楯突く生意気な子供だった。
イリアス、何か分からないことは、困ったことはないか。もう休みなさい、今日は少し遠出をしよう――先生は常に僕を気遣う言葉をかけてくれた。
孤児の中で年長者だから、年上だからと大きな役割を課したりせず、僕を他の子供と同じように扱ってくれた。
だが当時の僕はそれに対し「僕はこんなに優秀なのに、なぜ他の子供と同じに扱うんだ」と内心腹を立てていた。
そしてあの日、僕は先生に初めて反抗をした。それまで従順な優等生を演じていたはずなのに、なぜか苛立ちが抑えられなかった。
でも、先生は少しも怒らなかった。「楽しんでいる人の前でそういうことを言わないように」とたしなめるだけだった。
逆らい、楯突き、噛みつく。
助けがないと生きられないくせに立派な大人の振りをする、短気でかわいげのない子供――それが僕だった。
でも先生は、光の塾の大人達と違って、そんな僕を怒らないし殴らなかった。
何をしても認められた。従順でなくても優秀でなくてもよかった。短気でも生意気でもきっと受け入れてくれた。
ただの子供としてそこに在ることが、許されていた。
――ああ、そうだったのか。
僕という人間は、最初からずっと証明されていたんだ。
……こんなことに今さら気づいたところで、何もかも手遅れだが……。
「……ミハイール、先生……」
規則正しい寝息の音が聞こえる。完全に眠っているから、今から言うことは聞こえない。
――言いたいことを言わせてもらう。
あの時封じた、わがままで聞き分けのない愚かな子供を、やらせてもらう……。
「……先生……、どうして」
先生、先生、どうして。
「なんで……、教皇になったんですか……?」
――そんなものになってほしくなかった。
知らない名前の遠い存在になってほしくなかった。
枢機卿にだってなってほしくなかった。
本当は修道士にも司祭にもなりたいなんて思ってなかった。
僕を知らない教会にやらないでほしかった。
まだ教わりたいことが、分からないことがたくさんあったのに。
――先生、どうして僕を置いて行ったんですか?
僕は……先生の樹をずっと、見ていたかったです――。
◇
「う……」
――鳥の鳴き声が聞こえる。……朝だ。
夕方からの記憶がない。
どうやらいつもよりさらに早い時間に倒れたようだ。魔法を使いすぎたからか、それとも今日命が尽きるからなのか……。
身を起こすと、ベッドがきしむ音が聞こえた。
――シリルの教会の医務室だ。この音を聞くのも、今日が最後だ……。
昨日聖バルバラ宮で先生に会ったあと、転移魔法でシリルの教会に飛んだ。そして教会近くの公園のベンチに腰掛け、時が過ぎるのを待った。ここで倒れれば、必ずシリルの教会へ運ばれるだろうと踏んでのことだ。
時計を見ると、時刻は7時半にさしかかるところだった。
何も異常なければシリルが来る時間だが、おそらく今日もあと1時間は来ないだろう。
とりあえず、眼の色だけは変えておこうか……そう思い目を閉じた瞬間、ガチャリ、とドアノブが回る音がした。
「!」
「ああっ、良かった。お目覚めでしたか!」
大声でそう言いながら、シリルがこちらへ小走りでやってくる。足元にはいつもより少し大きめの"安堵"の芽が出ている。
「覚えてらっしゃいますか? 昨日、近くの公園で倒れておられて……夕方4時頃かな? そこから目が覚めないものだから、心配しましたよ~」
――芽が大きいのはそういうことか。それに、今日は"疲労"の葉がついていないし、顔色も悪くない。
と、いうことは……。
「……あの、教皇猊下が倒れられたと聞きましたが……」
「教皇猊下……? ええ、ええ。意識はまだ戻りませんが、危険な状態からは脱しましたよ」
「……!」
「本当によかったです」と笑いながら、シリルは棚から出したグラスに水を注ぎ、そのうち1つをこちらに差し出してくる。
「喉が渇いていませんか? よろしければどうぞ」
「……ありがとうございます」
礼を言うと、シリルはニコリと笑った。
今日は修道女がいない。シリル1人のようだ。
「…………シリル、様」
「!」
シリルの足元から"驚嘆"の芽が生えた。
"初対面"の人間に名を呼ばれたことに驚いたらしい。
「はい、なんでしょう? どこか、具合の悪いところでも――」
「私の名は、イリアス・トロンヘイムと申します」
「……えっ……?」
瞳を赤色に戻して名乗りを上げると、シリルは恐れとも驚きともつかない顔でこちらを凝視してきた。
シリルの手からグラスが滑り落ち、パンと音を立てて割れた。その音と共にシリルの足元にある"芽"が弾けて地面に散らばり、そこから新たな芽がいくつも生える。芽は絡み合いながら成長していき、最終的に、司祭としてやりとりをしていた時と同じ樹へと変貌を遂げた。
そういう意図は全くなかったが、どうやら記憶が甦ったらしい――。
「な……、え、え……?」
当然ながらシリルは今起こったことが理解できていないようだ。片手で頭を抑えながら、ただこちらを見下ろしている。
申し訳ないが、説明をしてやる時間はない。最後にここへ飛んできたのはわけがある。
司祭シリル・ヒュームに、頼みたいことがあった。それは、彼にしか成し得ないこと……。
「……お話ししたいことがあります。どうか私の告白を、聞いていただけませんでしょうか――」
痛みをほとんど感じなかった――どうやら神経が死につつあるようだ。
ちぎれてなくなった部分は公園の花壇の土を使って補修し、落ちた指は水魔法で保護して持ち帰った。
禁呪の魔器にするためだ――術者自身の肉体は、何よりも強力な魔器となる。だが、それだけでは足りないかもしれない。
この指の他にもうひとつ、威力が高い上に手軽に使える身体の器官があった。
髪だ――色・量・長さによって魔力の含有量が変わり、中でもノルデン人特有の漆黒の髪は、とりわけ強い魔力を持つ。
気味悪さの演出のために腰まで伸ばしていたが、もう必要ない。
肩より上の所まで短くしたのは久しぶりだ。首元が少し寒い。
肉体の中で最も強力な魔器は明日のために取っておく。
指2本、漆黒の髪、そして額の紋章に、赤い眼――これで大抵の理は破れる。
寿命が近いが魔力に衰えはない。むしろ、高まっている。
……これなら……。
◇
"捧げ物"をして転移魔法の威力を増幅させ、「聖バルバラ宮」へ飛んだ。
ミランダ教の大聖堂に隣接する宮殿だ――在任中の教皇が、そこで暮らしている。
このような重要な施設には純度の高い影の魔石が設置してあり、転移魔法で内部に入り込むことはできない。だが、贄のおかげでその理を破ることができた。
今目の前には、大きな"樹"がそびえ立っている。
昔よく見た、大きな樹――そのふもとで、ミハイール・モロゾフが静かに眠っている……。
樹にはところどころ朽ちている箇所があるが、幹や梢に大きな損傷は見られない。
シリルを始めとした高位司祭が尽力しているからかもしれない。
「…………」
杖を手に念じると、微弱な癒やしの光がミハイールを包んだ。
今の僕にはこれが限界だ――この寝所へ飛ぶために禁呪を使い、使用人や守衛に催眠魔法を施している。
ここから転移魔法で脱出することを考えると、無理はできない。
しばらくすると、変色して落ちそうになっていた葉が2、3枚緑色になった。
(やはり、この程度か……)
樹を見上げると、あの血の色をした葉が今も変わらずくっついていた。
過去の記憶、感情を示す"葉"――この人はそれらを捨て去ることなく、ずっと持ち続けている。
この大樹は、ミハイール・モロゾフという人間の歴史を証明するもの。
……この樹を見るのが、好きだった……。
「……う……っ」
「!!」
ミハイールが呻き声を上げながら、顔を左右に振った。
閉じた目にギュッと力が込められ、同時にその目がゆっくりと開いていく……。
「……!」
――いけない、早くここを……。
「…………」
(いいか……)
杖を持つ手を下ろした。
――もはや僕という人間は、わずかな者の心にしか存在しない。当然、この人の心からも消えている。
僕のことなど忘れ去ったこの人の命で、「世を乱した赤眼の逆賊」として捕らえられ処刑される。
僕に似合いの、惨めな結末じゃないか――……。
「……イリ……アス……?」
「!!」
顔をこちらに向けて、ミハイールがつぶやく。
しかしその目は焦点を定めておらず、僕を映しているとは言えない。
どうやら、夢と現を彷徨っている状態のようだ――開いた眼が、再びゆっくり閉じていく。
「…………」
帰らねばならないのに、僕はその場から動けなくなってしまった。
――動けるはずがない。だって今、名前を呼ばれたんだ。
僕はもう他者の心の中に存在できない。酒場の店主、宿屋の主人、そして司祭シリル……ここ数日何度も出会い、会話もした。でも、次の日には皆僕をすっかり忘れている。
それなのに、今……。
――……ミハイール先生! 僕の名前は、"イリアス・トロンヘイム"ですか?
「…………」
――君の名は"イリアス・トロンヘイム"――それ以外の君を、私は知らないよ。
「っ……」
――たとえ君が何者であったとしても、私は変わらない――……。
「……せん、せい、……先生……!」
――涙が止まらない。
真理を受け継いでから、疑問に思っていたことがあった。
どうしてシモンからロゴスを押しつけられたあと、先生の教会へ戻ったのか。また、どうして名前を書きかえられず、記憶も消えなかったのか。
教会へ戻ったのは、日々の習慣からくる無意識下の行動だろう。
記憶が消えなかったのは、額の紋章の力――神の恩寵にちがいない。
そういう風に結論づけて、以降は考えないことにした。
だが、今分かった。
僕が教会に戻ったのは、先生に助けを求めていたからだ。
僕が消えなかったのは、先生が僕の名前を呼んだからだ。
意識の闇の海に溶け込み消えかかっている僕の存在を、先生が証明してくれたんだ。
魂を形作る呪文――真名を、呼んで……。
「せんせい……ミハイール、先生……っ」
嗚咽するしかできない。涙で視界が歪んで、樹も先生の顔も見えない。
先生の返答はない――やはり、半覚醒状態であるからだろう。
「……先生。風邪を、……引きますよ……」
喉からようやくそれだけ絞り出し、めくれていたシーツをかぶせる。
少し苦しそうに呻いたので、杖を掲げて催眠魔法を施した。弱っているからか、魔力をあまり込めずとも眠らせることができた。
――もういい。
最後にこの樹を見ることができた。先生は僕をずっと覚えていた。
……十分だ。思い残すことはもう、何も……。
――『世話になった人に、料理を振る舞う。それで、なんでもない話をして、礼を言って別れる』……。
「…………」
……不意に、ジャミル・レッドフォードの言葉が頭をよぎった。
最初の2つはともかく、礼を言うことならできる。
だがそれは、あの青年自身の人生経験から考え抜いた行動であり、僕の望みではない。
それなら、僕自身の人生経験からくる「この人に伝えたい言葉」は何だろう。
――思い出せ。この人の前で僕は、どういう人間だった?
従順で礼儀正しい優等生、未来の司祭候補、下級生に優しいお兄さん――"端役"を演じるより前から、僕はそういう自分を演出していた。
でも、一度だけ……。
『イリアス。今日の舞台は、どうだったかな』
『特に何も思いません』
『……つまらなかったかな?』
『あんなのは所詮虚構ではないですか。何が面白いのか分かりません』
『舞台には、たくさんの人生があるよ。私はそれを見るのが楽しい」
『人生? ……役の衣装を着た人間が、本に書かれたセリフをただ読んでいるだけでしょう』
(ああ、そうだ……)
――僕は、先生に楯突く生意気な子供だった。
イリアス、何か分からないことは、困ったことはないか。もう休みなさい、今日は少し遠出をしよう――先生は常に僕を気遣う言葉をかけてくれた。
孤児の中で年長者だから、年上だからと大きな役割を課したりせず、僕を他の子供と同じように扱ってくれた。
だが当時の僕はそれに対し「僕はこんなに優秀なのに、なぜ他の子供と同じに扱うんだ」と内心腹を立てていた。
そしてあの日、僕は先生に初めて反抗をした。それまで従順な優等生を演じていたはずなのに、なぜか苛立ちが抑えられなかった。
でも、先生は少しも怒らなかった。「楽しんでいる人の前でそういうことを言わないように」とたしなめるだけだった。
逆らい、楯突き、噛みつく。
助けがないと生きられないくせに立派な大人の振りをする、短気でかわいげのない子供――それが僕だった。
でも先生は、光の塾の大人達と違って、そんな僕を怒らないし殴らなかった。
何をしても認められた。従順でなくても優秀でなくてもよかった。短気でも生意気でもきっと受け入れてくれた。
ただの子供としてそこに在ることが、許されていた。
――ああ、そうだったのか。
僕という人間は、最初からずっと証明されていたんだ。
……こんなことに今さら気づいたところで、何もかも手遅れだが……。
「……ミハイール、先生……」
規則正しい寝息の音が聞こえる。完全に眠っているから、今から言うことは聞こえない。
――言いたいことを言わせてもらう。
あの時封じた、わがままで聞き分けのない愚かな子供を、やらせてもらう……。
「……先生……、どうして」
先生、先生、どうして。
「なんで……、教皇になったんですか……?」
――そんなものになってほしくなかった。
知らない名前の遠い存在になってほしくなかった。
枢機卿にだってなってほしくなかった。
本当は修道士にも司祭にもなりたいなんて思ってなかった。
僕を知らない教会にやらないでほしかった。
まだ教わりたいことが、分からないことがたくさんあったのに。
――先生、どうして僕を置いて行ったんですか?
僕は……先生の樹をずっと、見ていたかったです――。
◇
「う……」
――鳥の鳴き声が聞こえる。……朝だ。
夕方からの記憶がない。
どうやらいつもよりさらに早い時間に倒れたようだ。魔法を使いすぎたからか、それとも今日命が尽きるからなのか……。
身を起こすと、ベッドがきしむ音が聞こえた。
――シリルの教会の医務室だ。この音を聞くのも、今日が最後だ……。
昨日聖バルバラ宮で先生に会ったあと、転移魔法でシリルの教会に飛んだ。そして教会近くの公園のベンチに腰掛け、時が過ぎるのを待った。ここで倒れれば、必ずシリルの教会へ運ばれるだろうと踏んでのことだ。
時計を見ると、時刻は7時半にさしかかるところだった。
何も異常なければシリルが来る時間だが、おそらく今日もあと1時間は来ないだろう。
とりあえず、眼の色だけは変えておこうか……そう思い目を閉じた瞬間、ガチャリ、とドアノブが回る音がした。
「!」
「ああっ、良かった。お目覚めでしたか!」
大声でそう言いながら、シリルがこちらへ小走りでやってくる。足元にはいつもより少し大きめの"安堵"の芽が出ている。
「覚えてらっしゃいますか? 昨日、近くの公園で倒れておられて……夕方4時頃かな? そこから目が覚めないものだから、心配しましたよ~」
――芽が大きいのはそういうことか。それに、今日は"疲労"の葉がついていないし、顔色も悪くない。
と、いうことは……。
「……あの、教皇猊下が倒れられたと聞きましたが……」
「教皇猊下……? ええ、ええ。意識はまだ戻りませんが、危険な状態からは脱しましたよ」
「……!」
「本当によかったです」と笑いながら、シリルは棚から出したグラスに水を注ぎ、そのうち1つをこちらに差し出してくる。
「喉が渇いていませんか? よろしければどうぞ」
「……ありがとうございます」
礼を言うと、シリルはニコリと笑った。
今日は修道女がいない。シリル1人のようだ。
「…………シリル、様」
「!」
シリルの足元から"驚嘆"の芽が生えた。
"初対面"の人間に名を呼ばれたことに驚いたらしい。
「はい、なんでしょう? どこか、具合の悪いところでも――」
「私の名は、イリアス・トロンヘイムと申します」
「……えっ……?」
瞳を赤色に戻して名乗りを上げると、シリルは恐れとも驚きともつかない顔でこちらを凝視してきた。
シリルの手からグラスが滑り落ち、パンと音を立てて割れた。その音と共にシリルの足元にある"芽"が弾けて地面に散らばり、そこから新たな芽がいくつも生える。芽は絡み合いながら成長していき、最終的に、司祭としてやりとりをしていた時と同じ樹へと変貌を遂げた。
そういう意図は全くなかったが、どうやら記憶が甦ったらしい――。
「な……、え、え……?」
当然ながらシリルは今起こったことが理解できていないようだ。片手で頭を抑えながら、ただこちらを見下ろしている。
申し訳ないが、説明をしてやる時間はない。最後にここへ飛んできたのはわけがある。
司祭シリル・ヒュームに、頼みたいことがあった。それは、彼にしか成し得ないこと……。
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