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15章 祈り(後)
45話 先生(前)
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――"ヨハン"、"イリアス"――僕という個体を示す2つの呼び名。
それらは僕にとっては呪文だった。
紋章を持つ者は、その者の真の存在を示す呪文――"真名"でない名前は呼ぶことができない。
だが、偽名もまた呪文。魔力と意識を集中させればきちんと発動できる。
"ヨハン"はシモンに押しつけられた偽の名前。"イリアス"は、かつてこの身に宿っていた"神"の情報と記録を使っているに過ぎず、こちらもやはり偽の名前だ。
僕達は神の器を借りているだけの仮の存在に過ぎない。
だから表に出て名乗る時は、魔力を込めなければいけなかった。
そうやって過ごすのが日常だった僕にとっては、他人の偽名を呼ぶなど容易いことだった。
だが、たった1つ。時を重ねても、どうしても唱えられない呪文があった。
教皇となったミハイール・モロゾフの、教皇としての名だ。
聖女の名のように封印されているわけでもないのに、僕はその名を呼べない。
……いや、知らないのだ。
新聞や雑誌などに彼の名が書かれていてもその部分だけが見えない。誰かがその名を口にしても、音として全く認識されない。
そもそも彼が教皇となる前――枢機卿であった頃の"モロゾフ卿"という呼称にも違和感があった。
聖銀騎士団の査察に来た彼の応対をする時、どうしても口からその呼称が出せず、"猊下"と呼ぶことで場を切り抜けた。
モロゾフ卿、そして、教皇"■■■■2世"――僕にとってそれは、彼を示す真実の呼称ではなかった。
――先生、どうして。
……どうして……。
――――――………………
――――…………
――……
「……っ……」
――朝日が眩しい。鳥の声が聞こえる。
見慣れた景色だ――今回はシリルの教会に運ばれたらしい。
昨日ジャミル・レッドフォードと遭遇し会話をしたあと、いつもの通りに人の樹を見ながら街を散策し、また夜に倒れた。
「8時、半……?」
シリルが来るのは7時半。一昨日は8時だった。今日はそれよりさらに遅い。
(…………)
別に待っている必要はないが、今日もまた、なんとなく待ってしまう。
――巡回が遅くて助かった。彼がいつもの時間にここにいたら、眼の色を変える間もなくまた裏口から出されてしまうところだった。
目を閉じて瞳の色を変えていると、足音と扉が開く音が耳に入ってきた。
「……ああ、良かった! お目覚めでしたか」
部屋に入ってきたシリルがニコニコ笑いながら僕の元へ歩み寄ってくる。傍らに、先日と同じ修道女を引き連れている。
「……私は、一体……」
「街の入り口で倒れておられたんですよ。覚えてらっしゃいませんか?」
「……そうでしたか。申し訳ありません、今ひとつ、記憶が曖昧で……。助けてくださって、ありがとうございます」
――ここ数日交わしてきた、定型文の会話。シリルはいつものように「それはよかった」と笑う。
それと同時に足元に"安堵"の芽が生えた。新しい芽だ――どうやら先日の出来事は、記憶から消えているらしい。
しかしいつもと違い、その芽には"疲労"の葉がついていた。顔色もあまり良くない。目の下にクマができている。
「……神父様も、お疲れのようですが……」
「!」
そう問うとシリルは目を丸くして、困ったように笑みを浮かべた。
そして、傍らにいる修道女が大きい声で「ほらぁ!」と言ってシリルの背中を叩いた。
「痛っ……痛いですよ、シスター……」
「シリル様は働き過ぎです! 倒れた方に心配されるくらい顔色悪いんですよ? 助祭様もいらっしゃるのだし、少しくらいお休みになってください!!」
「いやあ、しかしですよ……」
――しばらくの間、修道女によるシリルへの説教が続いた。
何時間寝ていないんだ、食事はちゃんと摂っているのか、大体あなたはいつも仕事を抱え込みすぎだ、少しは私達を頼ってほしい――そういう内容のことを大声でまくし立てながらにじりより、それに対しシリルが後ずさりをしながら「まあまあ」「しかしねえ」と修道女をなだめる。
(……うるさい……)
――何故今ここでそれをやるんだ。僕が立ち去ってからいくらでもやればいいだろう。
不愉快だ。僕の期限はあと1日――それまでせめて、穏やかな時間を過ごしたいのに……。
「うん……分かりましたよ、少し仮眠を取りますから、ねっ?」
「仮眠じゃなくて、1日お休みになってください! それくらいしても罰は下りませんよ!」
「ううん……いやあ、1日はちょっと……教皇猊下のお加減のこともありますし」
「それは、お呼び出しがあったらちゃんとお知らせしますから――」
「……『教皇猊下のお加減』とは? 何かあったのでしょうか」
「!!」
会話に割り込むと、修道女がハッとした顔で振り向き肩を縮こまらせた。
足元から大きな"驚嘆"の芽が飛び出している――信じられないことに、僕の存在を忘れていたらしい。
シリルが苦笑いしながら修道女の肩をポンと叩くと、意を汲んだらしい修道女が真っ赤な顔で「申し訳ありません」と頭を下げてから部屋を出て行った。
それを見届けてからシリルがこちらに向き直る。
「……申し訳ありません、騒ぎ立ててしまって」
「……いえ。あの、それで……」
「新聞でも報じているのですが、数日前、教皇猊下が倒れてしまわれまして……」
「え……?」
シリルが医務室の隅に置いてあるラックから新聞を抜き取り、こちらに手渡してきた。
「…………」
新聞の日付は昨日。
『教皇猊下、意識を失い倒れる』――。
――聖女の封印が解けたことにより、魔物が活性化。
事態を重く見た教皇は、街を覆う光の結界に強化魔法を施した。しかし、その反動で意識を失い昏倒。それ以前から体調を崩していたこともあり、容態は悪い。
高位司祭を招集し回復魔法を繰り返し施しているが意識は戻らず、予断を許さない状態である――。
『高位司祭を招集』――一昨日そして今日、シリルがここに来るのが遅れたのは、教皇の元に招集されていたかららしい。
シリルは笑顔を作っているが、足元には"不安"や"憂慮"のような、負の感情を示す木が生えている。
「…………っ」
新聞を持つ手が震える。
――なぜ、教皇は倒れた?
結界を強める魔法を放ったからだ。
――なぜ、教皇は結界を強めた?
聖女の封印が解け、魔物が活性化したからだ。
――なぜ……、聖女の封印は解けた?
……誰が解いた?
……誰が、
……一体、誰が……。
「……っ……!!」
「……どうしました、大丈、夫――……」
――呼吸が乱れる。そばにいるはずのシリルの声が、やけに遠く聞こえる。
やがて全ての感覚が遮断され、頭の中を在りし日の"彼"の言葉が去来する――。
……イリアス……。
イリアス……。
『……イリアス。"罰"というのは、罪を自覚したときにようやく下るものだよ』――。
「……あ、う……っ」
「……聞こえますか!? しっかりしてください、大丈夫ですか!?」
「!!」
シリルの大声で意識が引き戻される。
芽や樹など見なくとも分かる。その表情は戸惑いと憂慮に満ちていた。
「も……申し訳、ありません。昔、猊下が司教だった頃、彼の孤児院に身を寄せていたものですから……」
「……そう、でしたか……」
シリルはますます沈痛な面持ちになる。
「……あの、よろしければ貴方のお名前をお伺いしても……?」
「……ヨハン、です」
「ヨハンさん。どうかお気を強く持たれてください。教皇猊下は、私どもが力を尽くして、必ずお救いいたしますから――」
「…………っ」
――唇が震える。顔の筋肉が勝手に動き、何か感情を伴う表情を作っている。
「……お願いします、シリル様。どうか、……どうか……」
気づけば、シリルに縋り付くようにしてそう繰り返していた。
――今の自分の心が分からない。演じることしかしてこなかった。
今どんな表情をしているのだろう。僕の"樹"には今一体、何の葉がついているのだろう……。
それらは僕にとっては呪文だった。
紋章を持つ者は、その者の真の存在を示す呪文――"真名"でない名前は呼ぶことができない。
だが、偽名もまた呪文。魔力と意識を集中させればきちんと発動できる。
"ヨハン"はシモンに押しつけられた偽の名前。"イリアス"は、かつてこの身に宿っていた"神"の情報と記録を使っているに過ぎず、こちらもやはり偽の名前だ。
僕達は神の器を借りているだけの仮の存在に過ぎない。
だから表に出て名乗る時は、魔力を込めなければいけなかった。
そうやって過ごすのが日常だった僕にとっては、他人の偽名を呼ぶなど容易いことだった。
だが、たった1つ。時を重ねても、どうしても唱えられない呪文があった。
教皇となったミハイール・モロゾフの、教皇としての名だ。
聖女の名のように封印されているわけでもないのに、僕はその名を呼べない。
……いや、知らないのだ。
新聞や雑誌などに彼の名が書かれていてもその部分だけが見えない。誰かがその名を口にしても、音として全く認識されない。
そもそも彼が教皇となる前――枢機卿であった頃の"モロゾフ卿"という呼称にも違和感があった。
聖銀騎士団の査察に来た彼の応対をする時、どうしても口からその呼称が出せず、"猊下"と呼ぶことで場を切り抜けた。
モロゾフ卿、そして、教皇"■■■■2世"――僕にとってそれは、彼を示す真実の呼称ではなかった。
――先生、どうして。
……どうして……。
――――――………………
――――…………
――……
「……っ……」
――朝日が眩しい。鳥の声が聞こえる。
見慣れた景色だ――今回はシリルの教会に運ばれたらしい。
昨日ジャミル・レッドフォードと遭遇し会話をしたあと、いつもの通りに人の樹を見ながら街を散策し、また夜に倒れた。
「8時、半……?」
シリルが来るのは7時半。一昨日は8時だった。今日はそれよりさらに遅い。
(…………)
別に待っている必要はないが、今日もまた、なんとなく待ってしまう。
――巡回が遅くて助かった。彼がいつもの時間にここにいたら、眼の色を変える間もなくまた裏口から出されてしまうところだった。
目を閉じて瞳の色を変えていると、足音と扉が開く音が耳に入ってきた。
「……ああ、良かった! お目覚めでしたか」
部屋に入ってきたシリルがニコニコ笑いながら僕の元へ歩み寄ってくる。傍らに、先日と同じ修道女を引き連れている。
「……私は、一体……」
「街の入り口で倒れておられたんですよ。覚えてらっしゃいませんか?」
「……そうでしたか。申し訳ありません、今ひとつ、記憶が曖昧で……。助けてくださって、ありがとうございます」
――ここ数日交わしてきた、定型文の会話。シリルはいつものように「それはよかった」と笑う。
それと同時に足元に"安堵"の芽が生えた。新しい芽だ――どうやら先日の出来事は、記憶から消えているらしい。
しかしいつもと違い、その芽には"疲労"の葉がついていた。顔色もあまり良くない。目の下にクマができている。
「……神父様も、お疲れのようですが……」
「!」
そう問うとシリルは目を丸くして、困ったように笑みを浮かべた。
そして、傍らにいる修道女が大きい声で「ほらぁ!」と言ってシリルの背中を叩いた。
「痛っ……痛いですよ、シスター……」
「シリル様は働き過ぎです! 倒れた方に心配されるくらい顔色悪いんですよ? 助祭様もいらっしゃるのだし、少しくらいお休みになってください!!」
「いやあ、しかしですよ……」
――しばらくの間、修道女によるシリルへの説教が続いた。
何時間寝ていないんだ、食事はちゃんと摂っているのか、大体あなたはいつも仕事を抱え込みすぎだ、少しは私達を頼ってほしい――そういう内容のことを大声でまくし立てながらにじりより、それに対しシリルが後ずさりをしながら「まあまあ」「しかしねえ」と修道女をなだめる。
(……うるさい……)
――何故今ここでそれをやるんだ。僕が立ち去ってからいくらでもやればいいだろう。
不愉快だ。僕の期限はあと1日――それまでせめて、穏やかな時間を過ごしたいのに……。
「うん……分かりましたよ、少し仮眠を取りますから、ねっ?」
「仮眠じゃなくて、1日お休みになってください! それくらいしても罰は下りませんよ!」
「ううん……いやあ、1日はちょっと……教皇猊下のお加減のこともありますし」
「それは、お呼び出しがあったらちゃんとお知らせしますから――」
「……『教皇猊下のお加減』とは? 何かあったのでしょうか」
「!!」
会話に割り込むと、修道女がハッとした顔で振り向き肩を縮こまらせた。
足元から大きな"驚嘆"の芽が飛び出している――信じられないことに、僕の存在を忘れていたらしい。
シリルが苦笑いしながら修道女の肩をポンと叩くと、意を汲んだらしい修道女が真っ赤な顔で「申し訳ありません」と頭を下げてから部屋を出て行った。
それを見届けてからシリルがこちらに向き直る。
「……申し訳ありません、騒ぎ立ててしまって」
「……いえ。あの、それで……」
「新聞でも報じているのですが、数日前、教皇猊下が倒れてしまわれまして……」
「え……?」
シリルが医務室の隅に置いてあるラックから新聞を抜き取り、こちらに手渡してきた。
「…………」
新聞の日付は昨日。
『教皇猊下、意識を失い倒れる』――。
――聖女の封印が解けたことにより、魔物が活性化。
事態を重く見た教皇は、街を覆う光の結界に強化魔法を施した。しかし、その反動で意識を失い昏倒。それ以前から体調を崩していたこともあり、容態は悪い。
高位司祭を招集し回復魔法を繰り返し施しているが意識は戻らず、予断を許さない状態である――。
『高位司祭を招集』――一昨日そして今日、シリルがここに来るのが遅れたのは、教皇の元に招集されていたかららしい。
シリルは笑顔を作っているが、足元には"不安"や"憂慮"のような、負の感情を示す木が生えている。
「…………っ」
新聞を持つ手が震える。
――なぜ、教皇は倒れた?
結界を強める魔法を放ったからだ。
――なぜ、教皇は結界を強めた?
聖女の封印が解け、魔物が活性化したからだ。
――なぜ……、聖女の封印は解けた?
……誰が解いた?
……誰が、
……一体、誰が……。
「……っ……!!」
「……どうしました、大丈、夫――……」
――呼吸が乱れる。そばにいるはずのシリルの声が、やけに遠く聞こえる。
やがて全ての感覚が遮断され、頭の中を在りし日の"彼"の言葉が去来する――。
……イリアス……。
イリアス……。
『……イリアス。"罰"というのは、罪を自覚したときにようやく下るものだよ』――。
「……あ、う……っ」
「……聞こえますか!? しっかりしてください、大丈夫ですか!?」
「!!」
シリルの大声で意識が引き戻される。
芽や樹など見なくとも分かる。その表情は戸惑いと憂慮に満ちていた。
「も……申し訳、ありません。昔、猊下が司教だった頃、彼の孤児院に身を寄せていたものですから……」
「……そう、でしたか……」
シリルはますます沈痛な面持ちになる。
「……あの、よろしければ貴方のお名前をお伺いしても……?」
「……ヨハン、です」
「ヨハンさん。どうかお気を強く持たれてください。教皇猊下は、私どもが力を尽くして、必ずお救いいたしますから――」
「…………っ」
――唇が震える。顔の筋肉が勝手に動き、何か感情を伴う表情を作っている。
「……お願いします、シリル様。どうか、……どうか……」
気づけば、シリルに縋り付くようにしてそう繰り返していた。
――今の自分の心が分からない。演じることしかしてこなかった。
今どんな表情をしているのだろう。僕の"樹"には今一体、何の葉がついているのだろう……。
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