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其の四十六 幕間 懺悔
しおりを挟む添えた指先が肉に食い込む。
古傷が熱を帯び無性に疼く。
体の内側からガリガリと爪で引っかかれているかのような痛み。
冬の寒さ、もしくは雨風が激しいときには、ときおり痛むことがあったが、ここまで酷いのは初めてのこと。
机に伏すようにして、額に脂汗を浮かべる駐在に女が「大丈夫ですか、横になりますか」と声をかけては、その背を撫でる。
ヘビが肌の上を這っているかのような感触。不快だった。けれども「やめろ」と払いのける余裕もいまの駐在にはない。
「ぐぬっ、問題ない。昔受けた傷が少し痛むだけだ。おそらくはこの秋嵐のせいだろう。医者の話では実態をともなわない幻痛というものらしいから、放っておけばじきに勝手におさまる」
意地を張る駐在。
そんな駐在に女は唐突にこんな話を始める。
「そういえば私、昔に聞いたことがありますのよ。なんでも強い恨みの念が込められた傷って、何年経とうともけっして消えることがないんだとか」
まだ二本差しのお武家たちが大手を振って歩いていた時代。
体面をことのほか大事にする武士たち。わりと多かったのが、些細な諍いが高じての斬ったはった。すると生き残る者と死ぬ者がでる。こうなると遺族側は、「おのれ憎き仇め」と憎悪を募らせ、はじまるのが仇討ち。
物語や芝居の筋では、艱難辛苦の果てに仇敵を探し当てての「いざ尋常に勝負」となって、ついには見事に仇を討つという流れ。
しかし実態はもっと暗く、陰惨にて、成功することの方が稀。たいていが仇を探して歩いているうちに、成就することなく怨念に支配された不遇の人生を終えてしまう。
よしんば仇と対峙するまで漕ぎつけたところで、相手が手練れであれば、返り討ちということもままあった。
あるときのこと。
腰元との不義密通が露見し、これを咎められたことを逆恨みして、相手を斬り、国を出奔した者がいた。
これを追うのは父を殺された姉と弟。
たまさか長雨により川が渡れぬ日が続き、逃げていた仇が足止めを喰らう。
これぞ天の采配と、姉と弟は相手に追いついた。
けれども相手は凶状持ち。いかに正義は姉と弟にあろうとも、力量の差は明白。
憐れ姉と弟は無残にも返り討ちとなってしまった。
無念のうちにこと切れる寸前、意地のひと振り。姉の小太刀の切っ先が仇の脛にかすり傷をつける。
するとこのかすり傷が、いくら薬を塗ろうともちっとも塞がらないではないか。
やがてそこから肉が腐りだし、ついには骨をも腐らせ、足を切断することになり。結局はこれがもとで仇も一年ばかりあとに、死出の旅路へとおもむくことになる。
末期には「こっちにくるな、くるな」と手を彷徨わせては、ずっと熱にうなされていたという。
怪談話としてはありふれた内容。
脈絡なくそんな話をし始めた女が駐在に問う。
「その傷……、いったいどういった状況で、どこの誰につけられたのかしらん?」
とたんに駐在の脳裏に呼び起こされたのは、戦地でのある出来事。
◇
戦争にも決まり事がある。
守るべきことがあり、破ってはいけないことがある。
犯してはならない法があり、厳格な規律が存在する。
しかしそんなものは、ただの幻想の絵空事。実態はまるでちがう。
あそこに常識だの倫理だのは存在しない。たとえあったとしても、手榴弾や地雷の一発で軽く消し飛ぶ。
戦争とは人類史上最高の狂気の産物にて、その場を闊歩するのはヒトではなくて人の皮をかぶったヒトデナシばかり。
つねに死と隣合わせの異常な環境は、たやすく人間の枷を壊し、内に潜む本性をさらけ出す。
もちろん全員が全員、ヒトデナシに成り下がるわけじゃない。
強固な精神力にて矜持を保ち続ける者もいる。
駐在はかろうじて、そちら側の人間であった。ギリギリのところでヒトであり続けた。
欲望がむき出しとなる地獄にあって、高い倫理基準を維持し続けていられたのは、もとが警察官という職業柄もあったのであろう。あるいは残してきた家族に対して、恥ずかしい人間にはなりたくないという想いもあった。
だが、そんなもの、なんの意味も持たない。個人の勝手な感傷に過ぎないのだということを思い知らされる出来事が、駐在の身に起きた。
占領地の警邏中のこと。
いきなり路地裏から飛び出してきた相手に、左脇腹を刺された。
とっさに相手を突き飛ばし、駐在は手にした小銃を構えて、迷わず引き金をひいた。そうしなければ自分が殺されていたからだ。
しかし痛む腹を押さえながら、いましがた仕留めた相手を確認して愕然となる。
相手はまだ年端もいかぬおさげの娘であった。
そんな娘がいきなりどうして自分に襲いかかってきたのか?
事情が知れたのは駐在が病院のベッドで目を覚ましてから。
あの娘の両親は、いきなり押し入ってきた兵士どもに問答無用で殺され、娘はその身を穢されたらしく、それを恨んでの犯行。
もちろん駐在にはまるで身に覚えのないこと。
けれどもあの娘にとっては、そんなこと関係なかったのである。
同じ軍服をまとった、同じ国からやってきた兵隊。
それだけで憎むにはあまりある対象であったのだ。
駐在を治療してくれた医師は、気の毒そうに告げたものである。
「とんだとばっちりだ。災難だったな」と。
仕方がなかった。自分は巻き込まれただけ。運が悪かった。
何度もそう思い込もうとした。
けれどもダメだった。
自分の行為を正当化しようとすればするほどに、自分という人間に嫌気がさす。
どれほど理屈をこねて言い訳を重ねようとも、事実はかわらない。
己が助かりたい一心にて、不憫な娘を殺したという事実は。
そしてこれもまた無意味な感傷に過ぎない。
戦場で散々に敵兵を殺しておいて、いまさら何を勝手なことを。死は死でしかないというのに……。
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