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其の二百九十一 四の炎 たくろう火 後編
しおりを挟む日をまたぐ頃合い。
びょうびょうと吹く海風がぴたりと止んだ。
小島の岬の突端と、本土の浜辺は松林の中、ほぼ同時に怪火あらわれる。
ともに海へと向かう。
まるで互いの明かりを目印にしているかのようにして、近づいていく。
だが近づくほどに、聞こえてくるのは互いを罵る女の声と、「たくろう、たくろう」と呼ぶ声であった。
はじめのうちこそは悠々とした動きであったのだが、じきに怪火たちは激しく飛び回っては衝突をくり返すようになっていく。
それに合わせて興奮しているのか、「たくろう!」との声もいっそう大きくなる。
がつんとぶつかる度に、盛大に紅蓮がはじけては、夜の海に花火が落ちたかのように煌めく。
その光景は遠くからでもわかるほどにて、たまさか目にした者が「なんだあれは?」と訝しんでいると、潮騒に混じって聞こえてくるのは「たくろう、たくろう」
まるで男を恋い慕っているような、あるいは恨みを募らさせているような……。
とにかく一度、耳にしたら奥底にこびりついて忘れられない声であった。
それゆえに誰いうともなく、この怪火を「たくろう火」というようになった。
こうなると怪火たちが口にしている「たくろう」なる者のことが気になってくる。
「どこの誰だ?」と詮索がはじまるまでさして時間はかからなかった。
これに気もそぞろなのが網元の次男坊である拓郎だ。せっかく大店の婿養子におさまれそうなのに。だから身に覚えがある拓郎は内心の動揺を隠しつつ「おれは知らん、おおかた同じ名の別の者であろう」と素知らぬふりを通す。なぁに、祝言さえあげてしまえば、あとはどうとでも言い繕えるとの考えであった。
するとまるでそんな男の酷薄さを非難するかのようにして、あらわれる怪火の数が増えた。
二つが四つに、四つが八つにといった具合に倍々に増えていく。
それにともなって争いの規模も大きくなり、ついには壇ノ浦の源平合戦のごとくにまでなった。
夜ごと、瀬戸内の海にて「たくろう、たくろう」と怪火たちの合唱が響く。
たいそう評判になって、怖いものみたさで集まる見物人らで夜の浜辺に人垣ができるほどとなった。
ここまで騒ぎが大きくなれば、当然ながら拓郎の婿養子先である大店の主人の耳にも届く。
「本当におまえは関係ないのか?」
「はい、天地身命に誓って覚えなきこと」
大店の主人から問い詰められて、拓郎は内心では冷や汗をかきつつも、しれっと言ってのける。
あまりにも堂々とした態度ゆえに、主人も一度は「そうか」と信じかけたのだが、その時のことであった。大店の手代の者が主人に言った。
「ですが周囲の目もあります。いらぬ勘繰りを受けては店の今後にも関わるかと。ここはひとつ、拓郎殿みずからが浜に出向いて、己の無実を証明されてはいかがでしょうか? なんらやましいことがないのであれば、できるはず」
じつはこの手代、拓郎の軽薄さを見抜いており、お嬢様と店の行く末を託すべき相手ではないと考えていた。さりとてすっかり騙されている主人やお嬢様に、手代の身で意見をしたところで逆に自分が放逐されかねない。だから、ずっと機会をうかがっていたのである。
こうなると引くに引けないのが拓郎だ。
渋々ながらも、うなづくしかなかった。
もしもこの時、いらぬ欲をかかずに身ひとつで逃げ出していれば、拓郎の命脈もいま少しはのびていたのかもしれない。
拓郎が浜辺に赴き、集まった見物人らにまぎれるようにして、おずおずと怪火合戦を見物していたら、不意に観衆の中から「ここに拓郎がいるぞ!」との声があがった。
とたんにぴたりと沖合での動きが止まった。かとおもえばそれらが一斉に浜へと向かってきたもので、その場に居た者たちは泡を食って逃げ出す。
蜘蛛の子を散らす見物人ら。拓郎も逃げようとするも、その背がどんっと押されて転んでしまう。
いっしょについてきていた手代の仕業であった。
まごついている拓郎に怪火たちが殺到しまとわりつく。
たちまち着物に火が燃え移り、拓郎は炎に包まれた。
◇
男と女の情念を描いた四冊目の『たくろう火』の物語を読み終えた藤士郎は厭な汗をかいていた。
人が生きながらに焼かれる様は、血祭り炎女事件で藤士郎も目にしたことがある。そのせいで拓郎の最期がありありと脳裏に浮かぶ。あれは地獄の光景だ。
藤士郎は鼻先をひくりとさせる。
いま人の肉が焼けるような匂いがしたような……。
「ふふっ、そんなわけないか。どれ、気は重いけど仕事をしないとね」
つぶやきながら藤士郎はせっせと墨をする。
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