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其の二百九十 四の炎 たくろう火 前編
しおりを挟む鐘ヶ淵の家に滞在してから五日目となった。
昨夜はひと仕事終えてから、せっかくなので家にある風呂を使わせてもらった。
ゆっくり湯に浸かったのがよかったのか、今朝はわりと調子がいい。
藤士郎は通いの老婆の給仕を受け、朝食の膳につく。
黙々と食べつつ、ちらり、藤士郎は老婆を盗み見た。
この老婆、とにかく愛想がない。こちらから挨拶をしても、わずかに会釈を返すだけ。話しを振っても三言以上が返ってきたためしがない。もとから無口な性分なのか、はたまた雇い主にいらぬ詮索をせぬように、厳しく申しつけられているのか。
そんな老婆だが料理の腕はよく、出される食事に不満はない。身の回りの世話なども過不足なく、家事もてきぱきと手際よく片付ける。もしかしたら以前は、どこぞの大身か大店で女中奉公でもしていたのかもしれない。
老婆が鐘ヶ淵の家にいるのは、明け六つ半から朝四つ、卯の刻から巳の刻ぐらいまで。
藤士郎が写本仕事に没頭していると、いつのまにか消えている。余計な長居をすることは一切ない。
老婆が井戸端で洗い物をしている気配を感じつつ、藤士郎は本日の仕事にとりかかった。
四冊目のお題目は『たくろう火』とある。
初めて目にする言葉に藤士郎は興味をそそられ、さっそく書を開いた。
◇
瀬戸の内海には大小いくつもの島がある。
そのうちのひとつ、本土とは目に見える距離にて小舟で渡ることができるところに、その小島はあった。
七日に一度、夜更けになると決まって岬に小さな明かりが灯るようになったのは、いつの頃からか。
その明かりは、小島の網元の倅である拓郎が灯したもの。
この明かりを目指し、小舟を漕ぐのは対岸に住む漁師の娘のおたけである。
ふたりは男女の仲であった。けれどもその仲は周囲には秘密であった。なぜならふたりの住む集落同士は、漁場を巡って昔からとても仲が悪かったからである。
だからこうして、七日に一度だけ、こっそり逢瀬を重ねていた。
が、拓郎には秘密があった。
じつは他にも通っている娘がいたのである。
相手は隣村の農家の娘であるおよねであった。
拓郎という男、網元のところの次男坊にて、見目が良く、口も達者であったもので、初心な娘たちはころりと騙される。
おたけ、およね、ともにその毒牙にかかっていたのであった。
しかし恋は盲目にて、そんな男の酷薄な本性に気づかぬままに、逢瀬を重ねてしまい、ついには腹にやや子が宿ってしまった。
それもなんの因果か、おたけ、およね、そろって同じ時期にである。
すると案の定であった。
途端に拓郎の足が娘たちのもとから遠のいた。
ちっとも会いにきてくれない拓郎に、娘たちは「どうしたのであろうか? もしや病気にでもなったのか」と心配しているうちにも、日に日にお腹は大きくなっていく。
よもや拓郎が自分たちを捨てるつもりなんぞとは、ついぞ考えてはいなかったのである。
きっと迎えにきてくれる。夫婦になって、腹のやや子といっしょに幸せになれると信じていた。
だがしかし、そんな娘たちの願いが叶うことはなかった。
そろそろ周囲にお腹のことを隠しておくのも難しくなってきた頃のこと。
風の噂で聞こえてきたのは、拓郎が町の大店のところに婿入りするという話である。
「嘘だ! 嘘だ! 嘘だ!」
「あの人にかぎって、何かのまちがいよ!」
おたけ、およね、ふたりはともに話を聞くなり激しく取り乱す。
だが、それが真実だとわかると目を血走らせては半狂乱となり、夜更けにもかかわらず裸足で飛び出してしまう。
家の者らが慌ててあとを追うも、その夜は濃い霧が出ていた。
娘の姿はたちまち白い靄(もや)の彼方に呑み込まれてしまい見失ってしまった。
そしておたけ、およねは、行方知れずとなってしまった。
厄介者たちがそろって勝手に消えてくれた。
このことを知り、拓郎はほくそ笑む。これで心置きなく婿に行けるというもの。
けれども、十日後に祝言を迎えるという段になって、奇妙な出来事が起きるようになった。
起きたのは小島と本土をつなぐ海の上である。拓郎が小舟にて何度も往復した場所だ。
夜な夜な、顔のある怪火がふたつあらわれては「たくろう、たくろう」と叫びながら、互いを激しくののしり合っては、ぶつかり合うのであった。
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