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其の二百九十二 五の炎 二恨坊の火 前編
しおりを挟む藤士郎が鐘ヶ淵の家に滞在してから六度目の朝を迎えた。
障子を開けて縁側から庭に目をやれば地面が濡れている。夜中に雨が降ったらしい。よほど深く寝入っていたらしく、藤士郎はちっとも気がつかなかった。
泊りがけの長丁場も折り返しへと差し掛かったので、疲れが溜まっているのかもしれないが、仮にも道場を預かる剣客としてはあるまじきことである。
「いかんな。気を引き締めないと」
ぶつぶつ独り言にて藤士郎は寝床を片付け、厠へと立つ。
廊下を歩くと足の裏がべたつく。湿気のせいだ。おかげで家の中の空気もやや重たい。
お陽さまが顔を出してくれれば、鬱陶しいこれらを追い払ってくれるのだけれども、見上げた空はあいにくの曇天であった。
身支度を整え、藤士郎は五冊目の写本仕事にとりかかる。
冊子の表紙には『二恨坊の火』とのお題目。
「にこんぼうと読むのかな? 名前からしてお坊様のようだけど……。気になるのは恨の文字だね。これまたろくでもない話っぽいな。やれやれ、さすがにこうも続くと気が滅入ってしょうがない」
嘆息しつつ、藤士郎は書を開いた。
◇
これは大坂と京の狭間に位置している高槻で起きたこと。
平田源兵衛という男がいた。この男は名字帯刀を許されるほどの大庄屋であった。
そんな源兵衛の悩みの種は、妻のお久の体調が優れぬこと。
お久はもとは没落した武家の娘であったのだが、その可憐さにひと目惚れした源兵衛のたっての望みにて嫁にしたのであるが、美人薄命のたとえのとおり生来の病弱な性質であった。だがその儚さが彼女の美しさをよりいっそう際立たせるから、皮肉なものである。
すべてを承知の上で源兵衛はお久を嫁にした。
そして懐に入れた窮鳥をぞんざいに扱うことなく、手中の珠のごとく大切に扱った。
お久の養生のためにと、日当たり、風通しのいい快適な離れを建て、滋養のあるという食べ物やよく効くという薬を取り寄せてはせっせと与え、わざわざ堺や都から高名な医師を招いては診せたりもする。
お久もまたよくしてくれる夫にすっかり心を許し、想い慕い、ふたりは周囲も羨むほどの仲睦まじさであった。
だがお久はこの調子なので、家事を手伝うこともままならず。ましてや跡取りの子どもを授かるなんてとてもとても。
源兵衛は「気にすることはない。おまえさえいてくれれば、それでいい」と言ってくれるけれども、口さがない親族などはちくりちくりと嫌味を言う。
それもあり源兵衛の優しさに包まれ甘えれば甘えるほどに、お久は心苦しく申し訳ない気持ちとなってしまう。
そんなおりのことであった。
とある旅の僧が村に立ち寄り、しばらく庄屋の家に滞在することになった。
この旅の僧、名を二崑坊(にこんぼう)といい、それはそれは見目麗しい美僧であった。
けれども美しいだけでない。お経を唱えれば天上の調べのごとし。博識にて説法をすれば聞く者みな感心しきりとなる。信心深く法力もあって、祈祷をすればたちどころに悪霊退散となる稀代の名僧であった。
だがしかし、光あるところ影が差すもの。
その美貌ゆえに彼に対して恋慕の情や邪淫な心を抱く者がたびたびあらわれては、これに悩まされるようになった。
当人がどれだけ拒絶しようとも、まとわりついてくる。それが原因でいらぬ諍いが起きる。
これを厭うて二崑坊は修行の旅へと出たのであった。
源兵衛は丁重に二崑坊をもてなし、「どうか妻を救ってはもらえないだろうか」と懇願したのもまた、自然の流れであったのだろう。
けれども二崑坊はなかなかうなづかない。御仏に帰依する身としては、救いを求める者あらば、手を差し伸べたい。でも診たところ、源兵衛の妻であるお久を救うのはひと筋縄ではいきそうになかったからだ。
「どうやら、奥方の病は先祖が犯した業によるものらしい。これを払うのは生半可なことではない。まず七日、七日は篭って一心不乱に祈祷せねば……」
「でしたらどうかお願いします。必要な物はすべてこちらでご用意しますので」
「いや、しかし……」
藁にもすがる想いで拝む源兵衛であったが、二崑坊は返事を言い淀む。
その理由は、祈祷の間、七日七晩、ずっとお久とふたりきり、余人を交えず篭る必要があったからである。
若く美しい奥方と、若い美僧が同じ屋根の下で片時も離れずに過ごす。
もちろん二崑坊にやましい気持ちはひと欠片とてない。
お久にしてもそうだろう。
だが周囲の目はちがう。きっと邪推をすることであろう。
流言は恐ろしい勢いで拡散しては、人の心を浸蝕する。
二崑坊はそのことをよく知っていたがゆえに、なかなかうなづくことができなかったのである。
けれども最後には源左衛門、お久、両名からそろって手をつかれて「是非に」と頼まれ、ついには断わり切れなくなって首を縦に振った。
信じあうふたり、強い想い、絆さえあれば、周囲の声になんぞ惑わされることはない。
だからきっと大丈夫……。
そんな風に言われて二崑坊はほだされたのであるが、それがあやまちであったと気づいたときには、すべてが手遅れであった。
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