秋津皇国興亡記

三笠 陣

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第八章 中華衰亡編

148 戦線復帰

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 第三軍の攻勢転移は、十二月二十八日と決定された。
 盤嶺の第六師団、蓋平の第十四師団、そして海城の独立混成第一旅団および騎兵第一旅団、混成第二十八旅団による攻勢計画が第三軍司令部から伝達されたのは、二十七日未明のことであった。
 作戦計画は、まず第十四師団と騎兵第一旅団が斉軍南翼を南北から挟撃し大石橋付近にてこれを撃破。その間、牛荘方面の斉軍は独混第一旅団を中心とする部隊が拘束し、斉軍南翼への支援を阻止する。その上で盤嶺の第六師団を鞍山方面に進撃させ斉軍北翼を突破、南の大石橋、東の海城、北の鞍山の三方面から牛荘の斉軍を包囲、これを撃滅する。それが、第三軍が隷下部隊に伝達した作戦計画であった。
 攻勢転移までの準備期間が短いのは、すでに蓋平の第十四師団が戦力の再編と攻勢準備を終わらせていたからだ。
 また、結城家領軍である第十四師団への統制上、攻勢転移の日時を遅らせることも難しいと児島参謀長が判断したことも大きい。主家の次期当主である景紀の拠る海城を救出すべしという声が、第十四師団の司令部で日に日に高まっているとのことであった。これ以上、海城救出を遅延させては、第十四師団の独走を誘発しかねなかったのである。
 これもまた、封建制を残した軍の弊害であった。
 その弊害は、すでに第六師団への影響という形で明確化していた。
 盤嶺に師団司令部を置いているこの有馬家領軍が鞍山方面に対する反攻を開始するのは、十二月三十日とされていたのである。これは第十四師団と違い、攻勢転移のための準備期間が必要であったからである。







「すまん、心配をかけた」

 司令部に戻った景紀は、騎兵第一旅団の島田富造少将、混成第二十八旅団の柴田平九郎大佐、そして一時的に独混第一旅団の指揮を継承していた騎兵第十八連隊の細見為雄大佐に呪術通信の回線を開くと、そう言って自身が海城守備隊の指揮に復帰することを告げた。

『まあ、ご無事であったことは喜ばしいですし、弾薬の消費も一時的に抑えられて、部隊を再編する時間も稼げたので、守備隊としてはそれほど悪いことではなかったのですがね』

 島田少将が、通信用呪符の向こう側で苦い声を出していた。

『ただ、若の身に万が一があった場合、この場で真っ先に責任を取らされるのはそこの葛葉殿ですからね。こればかりは、若がいくら庇い立てしようと、彼女が呪術師という立場である以上、どうしようもない』

 それは、冬花への気遣いも入った、臣下としての景紀への苦言だった。

『若に対して不敬な言い方になるかもしれませんが、軍隊ってのは人が死ぬことを前提にした組織です。たとえ若の身に何かあっても、指揮官の代わりはいます。結城家という単位で見ても、後継者という意味でなら若の代わりはいます。しかし、そこの陰陽師殿にとっては若は替えの効かない存在でしょう。もう少し、彼女を尊重してやっても罰は当たらんと思いますがね。まあ、戦場で言うようなことでもないですが』

「……返す言葉もないな」

 景紀は島田少将の言葉に、かなり苦めに口元を歪めた。そこに、柴田大佐の冷めた声が割り込む。

『結城家内部の事情や、個人的な主従関係はこの際どうでもいいですから、海城守備隊指揮官としての作戦方針を示して頂きたい』

 別に柴田大佐はばつの悪くなった景紀に救いの手を差し伸べようとしたわけではないだろうが、結果としてそういうことになった。

「作戦方針は俺が倒れる前に示した通りだ」

 景紀は指揮官としての気分に切り替えて命じる。

「第三軍司令部からの命令に則り、第十四師団の攻勢転移に呼応して、騎兵第一旅団は海城の陣地を出撃、南側の包囲網を突き崩せ。斉軍南翼に、蓋平と海城の南北から挟撃されるかもしれないと思わせるんだ。その間、独混第一旅団および混成二十八旅団は牛荘方面の斉軍を牽制し、騎兵第一旅団の側面を援護。鞍山方面の斉軍北翼に関しては、戦況に応じるものとする」

「各部隊への弾薬の補給についてですが、騎兵第一旅団へ優先的に回します」

 景紀の言葉を、旅団幕僚である貴通が引き継いだ。

「現状では弾薬の使用制限を設け、各砲の火制地域の設定も維持します。弾薬の使用制限および火制地域は、明日の攻撃発起時刻を以て解除。弾薬の不足分に関しては、状況に応じて葛葉殿の術式に頼ることといたします」

 景紀に掛けられた呪詛を解いた今、冬花は自由に動けるようになった。彼女自身、弾薬不足は自分の爆裂術式で補えば良いと考えていたので、景紀と貴通の作戦方針に自分の存在を組み込んでもらうことにしていた。

「今日一日耐えれば、戦況は変わる。それまで、今の陣地を保て」

 独混第一旅団を始めとする海城守備隊は守勢に回っているが、劣勢ではない。
 これは火力や兵器の差も大きいが、一番の要因は皇国軍が海城を握っていることそのものが大きな要因であった。
 海城は、遼河平原南部における支撐点である。
 斉軍側は海城を奪取しない限り、遼河平原での自由な作戦行動を阻まれてしまうのである。海城を迂回して遼東半島を目指すことも可能であるが、戦術的には側面や背後を皇国軍に脅かされる危険性があるため現実的ではない。
 つまり、斉軍は攻撃側でありながら、守る側である皇国軍に戦闘の主導権を握られてしまっているのである。
 自分たちが戦闘の主導権を握っていると判断しているからこそ、景紀を始めとする守備隊の主要な指揮官たちは弾薬不足に陥りながらも、皇国軍が劣勢に陥っていないと思うことが出来た。そうした思いは下士官や兵卒にも伝播し、全体として海城守備隊の士気を保つことに成功していた。
 そしてその士気を維持したまま、海城守備隊は攻勢に転移出来るだろうと景紀は考えていた。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 十二月二十七日の海城を巡る攻防戦は、前日ほどの激しさはなかった。
 これまで西側防衛線の突破を目指していた牛荘方面の斉軍の動きが、明らかに鈍っていた。散発的な攻撃が何度か行われたが、すべて火力によって撃退している。
 唐王山を中心とする南側防衛線に対する攻撃は、西側防衛線に対するものよりは積極的ではあったが、斉側指揮官の必死さを感じさせるようなものではなかった。あくまで、海城の皇国軍に対する牽制程度の攻撃であった。
 この時、斉軍は海城守備隊指揮官である景紀への呪詛の失敗によって、死霊術を用いた呪詛を実行した宮廷術師四名と馮玉崑総兵を失っていた。二十六日の損害も甚大であったことから、牛荘方面に展開する斉軍は再編を余儀なくされていたのである。
 総兵である馮玉崑を失ったため、彼の指揮下にあった緑営はホロンブセンゲ率いる蒙古八旗軍に組み込まれることとなった。
 また、ホロンブセンゲ軍に従軍する宮廷術師の死者はすでに七名に達している。高位術者であると自認している宮廷術師たちにとってみれば、これは尋常ならざる犠牲であった。彼らの士気は一般の緑営兵士よりも低下し、都である燕京への帰還をホロンブセンゲに願い出る者まで出現する始末であった。
 もともと皇帝の庇護を受けていた宮廷術師たちにとって、ホロンブセンゲは本来の仕えるべき主君ではない。それ故にホロンブセンゲに対する忠誠心はなく、さらにホロンブセンゲ側も純粋な武人としての矜持から呪術師たちを妖しいまじないの使い手として蔑視している面があり、両者の溝は深まりつつあったのである。
 一方、左芳慶提督率いる斉軍南翼もまた、海城攻防戦の中で戦力を消耗していた。
 二十六日の段階で海城を陥落させられず、かえって甚大な被害をこうむったことから、左芳慶は蓋平方面の皇国軍の反撃を警戒する必要が生じたのである。特に遼河河口付近に留まっている皇国海軍の河川砲艦は左芳慶軍にとって脅威であり、むしろこの存在によって遼河西岸・田庄台からの補給路および退路が断たれてしまうことから、左芳慶は海城の皇国軍よりもこの四隻の河川砲艦と沖合の二隻の巡洋艦を警戒していた。
 結果として二十七日の海城攻撃は、皇国軍守備隊を海城に拘束しておくことを目的とした小規模なものに留まってしまったのである。
 ホロンブセンゲはこれまでの戦闘で失われた兵力を補充するために、盛京・遼陽に対して援軍の要請を行うべく早馬を出していた。
 遼陽を攻撃していた倭軍を撃退した以上、遼陽および盛京にある三万の兵力を遼河平原南部に展開することが出来れば、まだ作戦は続行可能であると判断していたのである。
 つまり二十七日は両軍共に、戦力の再編と再攻勢の準備に費やしていたといえよう。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 十二月二十八日。
 この日の戦闘はこれまでの海城攻防戦と違い、皇国軍側の砲撃によって開始された。
 景紀によって弾薬の使用制限が解除された各砲兵部隊による攻撃準備射撃の後、島田少将率いる騎兵第一旅団(島田支隊)は唐王山陣地を出撃、蓋平の第十四師団の攻勢転移に呼応して守勢から攻勢に転じた。
 この日の海城攻撃に備えて待機していた斉兵はこの砲撃によって陣形を崩され、さらに唐王山を出撃して突撃を敢行した騎兵第一旅団によって後退を余儀なくされた。
 陣前の敵を排除した島田支隊は次に牛荘方面の斉軍とその南翼を分断すべく、攻撃目標を海城南西約十五キロ地点の村落・缸瓦寨に定めた。
 偵察によって、この村落周辺に斉軍の一集団が陣を敷いて宿営していることが判明していたのである。
 この街道上の村落は、第二次海城攻防戦が開始される直前の十二月二十一日、斉軍南翼の進撃を遅らせるために島田少将が遅滞防衛戦を行った場所でもあった。
 懸念されていたのは路面の積雪であったが、すでに数万の斉兵によって踏まれていた雪原は、騎兵第一旅団の進撃にとって大きな障害とはならなかった。
 斉軍南翼を担う左芳慶軍は、缸瓦寨を中心に北側の馬圏子、南側の石橋子の三村落に陣を敷き、そこに緑営将兵を宿営させていた。
 馮玉崑の率いていた緑営同様、左芳慶軍も積み重なる損害にすでに士気の低下が見られていた。それでも街道上の村落である缸瓦寨を守備する必要から、鋭く尖らせた木を組み合わせた拒馬などを村落周辺に設置して相応の防御態勢はとられていた。
 缸瓦寨の防御陣地を偵察によって把握した島田少将は、騎兵による突撃を選択しなかった。むしろ随伴する野砲部隊、騎兵砲部隊の到着を待ってから、村落に砲撃を加えたのである。
 缸瓦寨を巡る戦闘が開始されたのは、二十八日一三三〇時過ぎであった。





「まったく、これじゃあ騎馬武者稼業は辞めざるを得なさそうだな」

 馬上から爆炎に煙る缸瓦寨の村落を観察しつつ、島田富造少将はぼやくように言った。
 騎兵のための障害物である拒馬が設置してあるという理由だけでなく、防備の整えられた敵陣地への強襲の代償がいかに高くつくかというのをここ数日で身を以て体験しているこの騎兵部隊指揮官は、まずは砲撃によって敵陣地に打撃を加えることを選んだのである。
 しかし、馬による突撃衝力によって勝敗を決するという騎兵本来の戦法からすれば、騎兵を率いていながら突撃ではなく砲撃を選択している自分に、奇妙な思いを抱いている。
 島田は結城家家臣団出身のため、結城家が利権を持つ南洋群島の要塞守備隊に配属されていた経験を持つ。そのために砲撃の持つ威力というものを騎兵部隊指揮官でありながら十分に理解しているが、やはりどこかしら皮肉な感情が湧き上がってくるのは否めなかった。
 それが、かつては馬に乗って戦場を駆け巡ってきた武士団を先祖に持つ将家家臣団の者となればなおさらである。

「まったく、時代の進歩というのは恐ろしいものだな」

 とはいえ、島田の声にはどこか楽しげな響きが混じっていた。

「若君やあの公家の少年のような若い連中が軍の中枢を占めるようになる頃には、いったい皇国陸軍はどうなっていることやら」

 そうやって彼が感慨にふけっている間にも、砲撃は続いている。
 缸瓦寨付近は平坦な地形であり、入念に陣地が整えられていた海城に比べて遮蔽物に乏しい。
 斉軍側の砲撃や射撃、さらには弓矢による攻撃が、皇国軍兵士にも降り注いでいる。
 だが、皇国軍の歩兵部隊や多銃身砲部隊の射撃によって、皇国軍が砲を展開している場所にまで辿り着ける敵兵はいなかった。泥混じりの雪の中に斉兵が沈んでいくのは、海城攻防戦とまったく同じであった。
 警戒すべきは牛荘方面の斉軍が騎兵第一旅団の側面を突いてくることであったが、こちらは海城守備隊が陣前出撃を行うことで牽制してくれている。
 缸瓦寨を巡る二度目の戦闘は、黄昏迫る一六〇〇時過ぎには大勢が決した。
 村落に築かれた陣地を破壊したと判断した島田少将が、ようやく突撃命令を下して缸瓦寨に突入したのである。
 火縄銃に比べて圧倒的に射撃速度が勝る三十年式歩兵銃や騎銃が次々に斉兵を撃ち倒し、その銃剣が斉兵の腹腔を抉った。
 騎兵第一旅団の主力が村落に突入して三十分と経たぬ内に、斉軍は味方の死体や装備をその場に残して藍旗溝や大高刊方面ヘと退却していった。
 一方の島田少将は、すでに宵闇が迫る時刻となっていたため追撃を短時間で切り上げ、村落内で野営しつつ海城からの補給段列の到着を待つことにしたのであった。

  ◇◇◇

「蓋平の第十四師団は本日、七キロほどの前進に成功。大石橋まで十五キロほどの地点に到達しているとのことです。また、騎兵第一旅団が缸瓦寨の奪還に成功した模様です」

 岫厳の第三軍司令部で、児島誠太郎参謀長がこの日の戦況を有馬貞朋司令官に報告していた。

「やはり、緒戦のような快進撃とはいかんか」

「緒戦と現在では路面の状況も違いますし、なおかつ斉軍も相応に抵抗しております」

 主君・貞朋の発言に、児島が解説を入れる。
 景紀らが遼東半島から一気に海城まで駆け抜けた緒戦に比べれば、確かに進撃速度は遅い。しかし、そもそも緒戦の快進撃は斉軍の戦意のなさが大きな要因であった以上、今回も同じこと期待するのは無理な話であった。
 もちろん、貞朋も本気で緒戦と同じ進撃速度を維持出来るとは思っていない。あくまで、緒戦を知るが故の感想程度の言葉である。

「とはいえ、予想されたほどの激しい抵抗には未だ遭遇しておりません。恐らく、斉軍は攻勢終末点に到達したものと考えられます」

 攻勢終末点とは、攻勢作戦における進出の限界地点のことである。攻勢側による戦線の拡大、補給線の伸長、それによって生じる物資弾薬糧秣などの不足によって、それ以上の攻勢が不可能となる地点が、攻勢終末点であった。
 特に今回の場合、斉軍は反攻作戦の中で多数の緑営将兵を失っている。その損害による士気の低下もまた、攻勢終末点の到来を早めたものと考えられた。
 遼河東岸を奪還して以降の斉軍は、海城攻略に兵力の大半を投入していたこともあり、その進撃速度は極端に鈍っている。
 加えて海城攻防戦で多数の緑営将兵や義勇兵たる勇軍を失っており、斉軍と第三軍の総合的な兵力差は逆転しつつあったのだ。
 そうした戦況を見極められていたからこそ、児島参謀長は攻勢転移を決断したともいえる。

「盤嶺の第六師団の状況はどうだ?」貞朋は己の参謀長に問うた。「千山山脈近くに展開する第六師団は、最も積雪の影響を受けやすい。三十日の鞍山攻撃は、間に合いそうか?」

「明日以降、天候の急激な悪化による積雪量の増大さえ発生しなければ、三十日の鞍山攻撃は実施可能です」

「判った。参謀長、以後も宜しく頼む」

 少なくともこれで景紀への義理は果たせそうだと、有馬貞朋は戦況図を見ながら小さく安堵の息をついたのだった。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 二十八日の皇国軍による缸瓦寨奪取は、ホロンブセンゲ、左芳慶の二人に反攻作戦の失敗を明確な形で自覚させる第一歩となった。
 缸瓦寨を奪取した倭軍が遼河沿いの藍旗溝、あるいは大高刊に向かえば、牛荘のホロンブセンゲ軍と南翼の左芳慶軍は完全に分断される。遼河河口には倭軍の軍船が陣取っている以上、遼河西岸への退路も断たれている左芳慶軍は倭軍に完全に包囲される形となってしまうのである。
 ホロンブセンゲは二十六日夜の時点で左芳慶軍に対する増援の派遣を検討していたが、海城攻防戦による損害、総兵・馮玉崑の死亡などで緑営の再編に時間がかかり、迅速な増援部隊の派遣は二十八日に至っても行われていなかった。
 さらに、海城の倭軍は缸瓦寨を攻撃した部隊の側面を援護しようとしたのか、陣前出撃を行って大富屯、東柳公屯の斉軍陣地を強襲した。
 この時、なおも海城で指揮を執っていた景紀が決断した陣前出撃は、あくまで騎兵第一旅団の側面援護であり、二ヶ所の斉軍陣地や宿営地となっている村落を焼き払うと素早く部隊を引き上げさせていた。
 一方、こうした遊撃的な陣前出撃に翻弄されたホロンブセンゲ軍は、二十八日、牛荘から動くことは叶わなかった。景紀らは、牛荘の斉軍を牽制して騎兵第一旅団の側面を守ることに成功したのである。
 明くる十二月二十九日。
 缸瓦寨にて夜営を行った騎兵第一旅団は、麾下の騎兵第十三、第十四連隊を中心とした兵力を以て、かつて第十四師団の司令部が置かれていた村落である虎樟屯を強襲することを決意していた。
 この虎樟屯は大石橋北方に存在する村落であり、島田少将の強襲作戦が成功すれば、大石橋の斉軍は南方から迫りつつある第十四師団と北方から迫る騎兵第一旅団の両部隊に挟撃されることとなる。
 大石橋さえ奪還出来れば、蓋平と海城は再び連絡線を確保することが可能であった。
 ただし、島田少将は牛荘方面の斉軍にもなお警戒を払っており、缸瓦寨に歩兵第四連隊を中心とする部隊を警戒のために配置していた。
 缸瓦寨は海城の都城より十五キロの街道上に存在する村落であり、すでに海城との連絡は確保している。牛荘の斉軍が缸瓦寨奪還のために動いたとしても、偵察さえ十全に行っていれば海城からの援護を受けられた。
 だからこそ、島田少将は牛荘方面の斉軍に背を向けながら戦うという決断が下せたのである。
 二十九日の戦闘の焦点は、これまでの海城から大石橋に移っていた。
 ここの再奪取を狙う第十四師団と、大石橋を守備する左芳慶軍を背後から脅かそうとする騎兵第一旅団。
 別々の指揮系統に属する両部隊の連携は、呪術通信の霊力波設定などの点で問題があり、皇国軍側から見れば円滑とはいかなかったが、大石橋を守る斉軍にとっては十分な脅威となっていた。
 虎樟屯を強襲した島田少将は、あくまで大石橋を守備する斉軍の背後を脅かすことを目的としており、無理な突撃は決してさせなかった。
 随伴する騎兵砲部隊による砲撃を中心に虎樟屯への攻撃を行い、騎兵を下馬させて歩兵のように扱う場面もあった。これは歩兵の肉薄攻撃に脆弱な砲兵部隊を守るための措置であり、特に射程の短い騎兵砲を用いている関係上、斉兵の突撃には細心の警戒を払っていた。
 この日、第十四師団は大石橋まで三キロの地点にまで進出、翌三十日、大石橋への攻撃を開始出来る地点にまで到達していた。
 この段階で、左芳慶軍は大石橋において皇国軍に包囲される可能性が現実的なものとなっていた。
 そして、牛荘にあったホロンブセンゲは、ついに左芳慶軍に対して早馬を飛ばし、牛荘方面への脱出を命じることとなったのである。





「ガハジャン」

 二十九日の夜、牛荘に本陣を置いているホロンブセンゲは自らの副将に命じた。

「貴様に八旗軍十営五〇〇〇と、緑営五営二五〇〇を預ける。左芳慶軍の後退を援護するのだ。今はとにかく、時を稼ぐことが必要だ。遼河が結氷するまで持ち堪えることが出来れば、倭人どもの軍船も退かざるを得ない。そうすれば、我々は結氷した遼河を使い、西岸から自由に補給を得ることが可能にある。それまで、何としても持たせるのだ」

「御意。将軍の命、しかと承りました」

 最早、大規模な旋回運動を行って倭軍を遼東半島に押し込めて殲滅するという当初の作戦計画は実行不可能となっていた。そのことを、攻勢に転移した倭軍を見てホロンブセンゲはついに認めざるを得なくなっていたのである。
 しかし、騎馬民族出身のこの猛将は、未だ己の敗北を認めることが出来ずにいた。
 これまで、弱体化した斉軍の中で唯一、皇帝に勝利を捧げ続けてきたという彼自身の矜持が邪魔をしていた。
 せめてこの倭軍による攻勢転移を頓挫させ、遼河平原において膠着状態に陥ることを目指すしかない。
 中華帝国には「以夷制夷(夷を以て夷を制する)」という言葉がある。他国を利用して、別の他国を抑えるよう仕向けることで自国が利益を得る、という意味である。
 あの卑劣なるアヘン戦争を仕掛けてきたアルビオン連合王国だけでなく、ヴィンランド合衆国や帝政フランクなど、斉に対して通商を求めてきている洋夷は多い。
 遼河平原で戦線を膠着させている間に、これら洋夷を利用して倭人どもを牽制させる。
 不遜なる倭軍を殲滅するという咸寧帝からの命を果たすことは困難となってしまったが、偉大なる大ハーンの末裔が統べるこの大斉帝国が東夷たる倭人に和睦を申し込むなど、大ハーンの血統を穢す行為に他ならない。
 戦況報告のために燕京に戻る機会があれば、何としてでもこの策を咸寧帝に奏上しなければならない。
 ホロンブセンゲは強くそう考えていた。
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