秋津皇国興亡記

三笠 陣

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第八章 中華衰亡編

147 目覚め

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 身にまとわりつく重苦しい亡霊たちの気配が徐々に軽くなり、それが完全に消えると同時に景紀の意識はゆっくりと浮上した。
 未だ体は怨霊に取り憑かれたことによる気怠さと疲労を感じていたが、精神を押し潰そうとするような濃密な怨嗟による圧迫感はなかった。

「……うっ」

 小さな呻きと共に、景紀の意識が覚醒に向かう。
 そして目を光に慣らしながらゆっくりと開いて、いきなり目に飛び込んできたものに思わず叫び声を上げそうになってしまった。

「―――っ!?」

 そこにあったのは、じっと自分を見つめる真っ赤に染まり瞳孔が縦に裂けた獣の瞳。
 それが自身のシキガミである少女のものだとすぐに気付き、少年は辛うじて叫び声を呑み込む。

「と、冬花……?」

 警戒と訝しさから、景紀は慎重に声をかけた。
 しかし、冬花からの反応はない。ただ、顔面間近に迫る妖狐の瞳が、じっと景紀を見つめているだけだ。
 あの黒い夢の中で聞こえた獣の咆哮と同じく、妖狐のものとなったその瞳に狂乱の色はなかった。
 耳と尻尾の封印が解けたままとなっている冬花は、寝台に横たわる景紀の上にのしかかるような体勢になっていた。両手を景紀の頭の左右について上体を支え、両足は彼の胴体を挟み込んでいる。
 そして景紀は今さらながらに気付いたのだが、自分の小指が何か細い糸で冬花の小指と結びつけられているようだった。自身の顔の脇についた冬花の左手の側に、自分の右手があった。

「……」

 しばらく妖狐の少女は目を覚ました景紀の様子を窺うようにじっと見つめていた。そして、鼻をすんすんとうごめかして、景紀の顔や首筋の匂いを嗅いでいく。
 そうして一度鼻を離すと、今度はその顔に喜色を浮かべて景紀の顔を舐め始めた。

「っておい!?」

 いきなりのことに、思わず景紀は声を上げてしまった。くすぐったさに思わず顔を背けようとするが、妖狐の少女は逃がさないとばかりに何度も何度も少年の顔を舐め続ける。
 今まで冬花が妖狐の血を暴走させたことはあったが、こんな形で暴走させるのは初めてだ。
 尻尾が左右に振られてバサバサと音を立てている。おまけにその所為で着物の裾は完全にめくれ上がってしまっていた。

「落ち着け冬花!」

 空いている左手で顔を舐め続ける冬花の顔を引き剥がそうとするが、主人に甘える動物のような仕草をしていようとも、妖狐の血が暴走してしまっていることには変わりない。片腕の力だけでは、まったく引き剥がせなかった。

「鎮まれ、冬花!」

 言葉が通じないとなれば、あの宮内省御霊部長から身に付けておくように言われた勾玉の力に頼るしかない。
 景紀が命じるように叫ぶと、途端に妖狐の少女の動きが止まる。そして、しばらく止まっていたシキガミの少女が、まるで油の切れた機械のような動作で景紀から顔を離した。

「……か、景紀?」

 そのときにはもう、彼女の赤い瞳は元の人間のものに戻っていた。

「えっ……? 私……、今……」

 暴走状態になっていた時の記憶が流れ込んできたのか、これ以上にないほどに気まずさと羞恥に溢れた声と共に唇をわななかせていた。

「―――っ!?」

 そしてついに羞恥に耐えられなくなったのか、景紀の胸に己の顔を押し付けた。顔を見られたくなかったのだろう。

「冬花」

 そんな少女に、景紀は今度はそっと声をかける。空いている左手を、そっと冬花の体に回す。

「ありがとうな。お前の声、ちゃんと届いてたぜ」

「馬鹿っ……!」

 羞恥に震えていた彼女が、今度は泣きそうな声でそう言った。

「私がどれだけ心配したかっ……! こっちの気も知りもしないで意地ばっかり張って……!」

 顔を上げて景紀を睨んでいる少女の瞳には、涙の雫が宿っていた。

「すまん」

 流石に今回の件は自ら呪詛に掛かる危険に飛び込んでしまった景紀が全面的に悪いので、素直に謝罪の言葉を口にする。

「貴通様だって心配してたのよ……!」

「そいつは、悪いことしたな」

 自分は冬花を信頼していた。冬花もまた陰陽師だから呪詛の解呪を行うことが出来る。しかし、貴通だけは、呪詛に倒れた景紀のために出来ることが何もないのだ。
 その不安は、冬花以上のものがあっただろう。
 後で貴通にも謝らないとな、と景紀は思う。
 しばらく冬花に抱きつかれることになった景紀は、このシキガミの少女を安心させるように、そっと左手でその背中をあやすように叩いていた。
 幼い頃から、冬花が泣く度に何度もやってきたことだ。
 この刹那の瞬間だけは、主君と従者ではなく、幼馴染の少年少女として互いに存在を確認し合うように、二人はしばらく抱きしめ合っていた。

  ◇◇◇

 着物の裾が腰の辺りまでまくれ上がってしまっていた所為でもう一度、冬花は羞恥に沈むことになったが、それも落ち着くと景紀は現在の戦況を尋ねた。
 しかし、ずっと景紀の解呪と怨霊の浄化に集中していた冬花は、詳しい戦況についてまったく把握していなかった。そのため景紀は、貴通が置いていった報告書に目を通すことにした。

「なあ、貴通は今どうしている?」

「休んでらっしゃるわ。昼間はずっと、部隊の管制をやってたから」

「……あいつには、負担をかけ過ぎちまったな」

 丁寧な文字で簡潔にまとめられた報告書に目線を落としながら、景紀はほろ苦く言った。

「冬花、悪いが俺が目覚めたことを島田少将たち守備隊各指揮官と第三軍司令部に報告しておいてくれないか? 俺は、貴通んところに行ってくる」

 兵学寮同期である男装の少女にも心配と負担をかけてしまった自覚があるだけに、自分が直接貴通のところに目覚めたことを知らせにいった方がいいだろうと景紀は思っていた。

「了解。それと、何か食べるものを用意しておくわ。多分、お腹減ってるでしょ?」

 少しからかうように言った冬花の言葉に釣られて、景紀は苦笑を浮かべる。

「……まあ、確かに眠りこけている間、何も食ってなかったからな。それじゃあ、頼む」

「判ったわ」

 そう言って、もういつもの調子を完全に取り戻したらしい冬花が扉の向こうに消えていった。





 景紀は貴通の自室として宛がわれている部屋の扉を一度叩いてから中に入る。
 部屋の中からは、規則正しい寝息が聞こえた。きっと彼女も疲労が溜まっているのだろう。
 そんな彼女を起こしてしまうのも何だか申し訳なくて、景紀は角灯を持ったまま、しばらく寝台の脇に立っていた。
 だが、景紀の気配と角灯の光に気付いたのだろう。布団にくるまった少女の体が、もぞりと動く。そしてその目が、ゆっくりと開かれた。

「すまん、貴通。心配かけた」

「……景、くん?」

 疲労の所為か、兵学寮仕込みの寝起きの機敏さはなかった。ぼんやりと寝台に横になったまま、脇に立つ景紀の顔を見つめている。

「……本当に、景くんですか?」

「ああ。さっき目が覚めた」

 景紀は角灯を床に置くと、寝台に脇に片膝をついた。
 貴通はどこか恐る恐るといった動作で寝台の上に起き上がると、そっと景紀の胴に両手を回して顔を胸に押し付ける。

「……景くんの鼓動が聞こえます。本当に、戻ってきてくれたんですね」

 迷子になった子供が親を見つけたときのような、泣きそうな中に安堵の混じった声だった。

「ああ」

「……本当に、心配したんですよ。だって、連中の呪詛は怨霊を使ったものだと聞いていたんですから。さっき目が覚めた時だって、もしかしたら景くんの幽霊じゃないかって思って、それで……」

 だから、心臓の鼓動を聞いて安心したらしい。
 景紀は自らが幽霊ではないと貴通に納得させるように、背中に手を回して少し強めに少女の体を抱きしめた。もう片方の手で髪を梳いていく。

「心配かけちまって、ごめんな」

「おあいこです。兵学寮の時は、僕の方が景くんに心配かけることの方が多かったんですから」

 そう言いつつも、貴通は景紀を抱きしめたまま離そうとしなかった。

「俺がいない間、よくやってくれた」

「僕、頑張ったんですよ」

「ああ、知ってる。お前は本当に頼りになる、俺の軍師だ」

「じゃあ、もう少し頑張ったご褒美を下さい」

 貴通はそう言って、ぎゅっと景紀の胴に回した腕に力を込めた。

「少しの間、このままでいさせて下さい」

「ああ」

 そう返事をすると、貴通は改めて景紀の胸に顔をうずめた。強く抱きしめている腕と鼓動を聞いている耳で、もう一度少年の存在を確かめようとするかのように。
 貴通はこの刹那の時間、ただ一人の少年の身を案ずる一人の少女に戻っていた。

  ◇◇◇

「お見苦しいところをお見せしました」

 貴通はそっと景紀を抱きしめていた腕を解くと、少しだけ顔を赤らめてそう言った。それは羞恥だけではない、乙女の想いの表れでもあった。しかし、彼女は今この場でその感情を優先するわけにはいかなかった。
 自分はまず第一に、景紀の軍師なのだ。
 そして貴通が景紀から離れたのを見計らったように、部屋の扉が叩かれる。

「冬花です」

「ああ、入ってきて下さい」

 貴通がそう言うと、盆の上に鉄瓶と茶碗を乗せた冬花が部屋に入ってくる。

「景紀、ご飯持ってきたわ。まあ、ご飯はもう冷めちゃったから、お茶漬けだけど」

「ああ、それで十分だ」

 流石に寝ている烹炊班を起こして、景紀一人のために食事を作らせるわけにもいかない。
 貴通の寝台に腰掛けた景紀は、そのまま冬花が作ってくれたお茶漬けを啜った。彼の両脇に、それぞれ冬花と貴通が腰を下ろす。

「それで、景紀。さっき軍司令部に連絡したら、児島参謀長から第三軍は攻勢転移を決断したと伝えてくれって言われたわ」

「具体的な命令は?」

 ずずっと最後の一口までお茶漬けを啜った景紀は、茶碗を冬花に返しつつ尋ねた。

「後ほど、守備隊司令部に呪術通信で送信するそうよ」

 冬花はあくまで結城家次期当主である景紀の従者という立場であり、軍関係者ではない。詳細は軍呪術兵を使った正規の手順で伝達するということだろう。

「ただ、私に爆裂術式による火力支援を要請してきたわ」

 冬花は景紀が目覚める前にも、児島参謀長から爆裂術式による支援を要請されている。その際は景紀の解呪が優先であるとして断ったが、景紀が目覚めたのなら問題ないと判断されたのだろう。

「もちろん、私は景紀のシキガミだから、景紀の判断に任せるとはおっしゃっていたけど」

 そこで一旦言葉を句切って、冬花は主君たる少年の目をしっかりと見つめた。自分の覚悟を、景紀に伝えようとするかのように。

「状況が状況だ」

 そして景紀も、自身のシキガミの覚悟に応える。そもそも、斉軍の大反攻が始まる予兆が見えた時から、景紀はこの陰陽師の少女の力を戦争に用いると言ってきた。
 今さら、躊躇う理由もなかった。

「またお前を使わせてもらうぞ」

 軍司令部から正式な要請があった以上、冬花の父・英市郎への言い訳は出来る。それに、結城家領軍の士族出身将校たちからの陰陽師が自分たちの戦功を奪うのかという反発もある程度、押さえられるだろう。
 これが完全な勝ち戦ならばまた別の反応が士族出身将校から出てきただろうが、現状の戦況は逼迫している。
 高位術者の戦場への投入も、やむを得ないことを納得させらるだろう。

「了解。あなたのシキガミが斉の術者に劣っていないってところ、見せてあげる」

「ああ、頼みにしてるぜ」

 そう景紀が言うと、冬花は嬉しそうな笑みを浮かべた。

「ふふっ、麗しい主従愛に少し妬けてしまいますね」

 そんな二人の遣り取りを、微笑ましそうに貴通は見ている。

「ねぇ、景くん。僕ものことも、頼りにして下さいね?」

「判ってるさ。お前は、俺の軍師なんだろう?」

「ええ、そうですよ」

 どこか甘さの混じった嫉妬を声に乗せながら、貴通もまた嬉しげに微笑んだ。
 そんな他愛のない言葉を交わしていると、三人ともようやく元の場所に戻ってきたような安堵感を覚えた。
 ここまで、この三人で戦ってきた。
 また再び、この三人で戦うことが出来るのだ。

「景くんが復帰したことですし、そろそろ司令部に戻りますか」

「お前、疲れは大丈夫か?」

「景くんが戻ってきてくれたことで、疲れなんて吹き飛んじゃいましたよ」

 そう言って、貴通は悪戯っぽく笑ってみせた。やはり自分の隣には、この兵学寮同期生が必要なのだと男装の少女は改めて実感していた。
 彼のためならば、自分はまだまだ頑張れる。

「それじゃ、私は食器を片付けてくるわ」

 話に一区切り付いたところを見計らって、冬花は盆を両手に持ちながら立ち上がった。

「ああ、そうだ。冬花、ちょっと聞きたいんだが?」

 そんな己のシキガミの背に、景紀は問うた。

「俺の呪詛や取り憑いていた怨霊、結局どうなったんだ?」

 呪詛とはいえ、皇国軍に加えられた損害に違いはない。自分のことでもあるので、景紀は確認した。

「ああ、呪詛はしっかりと返してやったわ。怨霊の方は、例の馮玉崑とかいう男に取り憑くように仕向けておいたから。多分、どっちも今頃死んでると思うわ」

 主君からの問いに、陰陽師の少女は何でもないことのように、そう答えたのだった。
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