秋津皇国興亡記

三笠 陣

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第五章 擾乱の半島編

84 脱出計画

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 空を茜色に染め上げる夕日が帯城を囲む山々の彼方へと沈みつつある時刻、帯城倭館から無数の白い鳥が飛び立っていた。

「ったく、あいつは人使い荒すぎだぜ」

 紙で作られた白い鳥の式を空へと舞い上がらせながら、鉄之介は愚痴った。

「まったく、これに付き合っていられる冬花さんや姫様の凄さを実感するわ」

 隣で、八重も同じような感想を抱きながら式を空へと飛ばしている。

「とにかく、日が完全に暮れる前に城内にばら撒くわよ。ほら、急いで!」

「判ってるっつうの!」

 操った式の鳥の大群を、二人の少年少女は帯城城内に向かって飛ばす。
 彼らは式を操りながら、景紀から言われたことを思い出していた。

『公主殿下、あなたに王位を簒奪した王世子・李欽の蛮行を批難する文書を書いて頂きたい。それも簡潔に、短く』

 一通り部下への命令を下し終わった景紀は、宵の居室に集められた宵、鉄之介、八重、貞英、金光護の前でそう言ったのだ。
 そして、困惑する貞英に墨液と筆、そして紙片程度の大きさの紙を渡した。

『いったい、お主は何をしようとしておるのじゃ?』

 そう問うた公主に対して、あの少年は実に酷薄な笑みを見せた。鉄之介から見ても、少し背筋が寒くなる表情であった。

『何、王世子殿下に対する、ちょっとした嫌がらせですよ』

 景紀の説明によると、王世子・李欽には太上王・康祖が後ろ盾になっているとはいえ、まだその権力基盤は盤石ではない。しかも、暴動を利用して父親である現国王・仁宗を廃したのだ。
 礼と名分を重んずる儒教的道徳観念の強い陽鮮では、よほどの大義名分が揃っていない限り王位簒奪は支持を受けにくい。歴史上、陽鮮では王位を簒奪して即位した者もいるにはいるが、その権力基盤を確固たるものにするためには、大粛清が必要であった。
 だからこそ、景紀は王世子の妹である貞英に兄を批難する文章を書かせ、その権力基盤が整わない内に王世子に政治的打撃を与えようとしているとのことであった。
 彼がもし自らの権力基盤を整えるために粛清など内部の反対者の一掃に乗り出せば、それだけ斥邪討倭を実行するだけの余力はなくなる。軍や警察機構は、それら反対者の捕縛・殺害に忙殺されるからだ。
 それに、無秩序な暴徒と化した中央軍の兵卒や帯城住民も、李欽にとっては厄介な存在だろう。自分が権力を握るのには役に立ったが、いざ権力を握ってしまうと、そうした無秩序な熱気に冒された群衆ほど扱いに困るものはない。
 これは皇国における過激な攘夷派などを見れば明らかだと、景紀は言っていた。

『う、うむ。やってみるのじゃ』

 強ばった顔で、十二歳の公主は景紀から筆記具を受け取った。そして、官僚として行政文書の作成にも携わり、さらに科挙に合格した経験もあるため文学的教養も高い金光護が、貞英の書いた文書を校正して、より洗練された内容のものとした。
 すると、景紀は直ちに宵や鉄之介、八重に寒天版ヘクトグラフで貞英の書いた文章を大量に複写するように言いつけたのだ。
 宵は結城家の屋敷や鷹前で行政文書の複写などを行った経験もあり、寒天版の使用方法は心得ていた。
 彼女の主導の下、鉄之介たちは公主の書いた文書の大量複写を開始したのである。途中からは館や使節随員の書記官なども加わって、四〇〇枚ほどの複写を夕刻までに終わらせていた。
 そして、日が暮れる前にそれを式として操って帯城城内に散布するよう、景紀は言いつけたのであった。帯城は日暮れと同時に外出禁止令が出される都市であるため(街灯が存在しないので、夜は真っ暗になることがその理由)、何としても日のある内に実行する必要があったのである。
 景紀の目指したものは、後世の表現でいえば伝単ビラの散布に相当する作戦であった。
 問題は、文字が読める人間が城内にどれだけいるのか、ということである。皇国の識字率は、同時代の国々を見ても突出して高かった。下層の農民も含めて、国民の九割近くが文字を読めるというのはある意味異常ですらある。西洋でも先進国とされるアルビオン連合王国ですら、識字率は二割に満たないことを考えれば、その異質さが判る。
 しかし、皇国基準で考えた伝単の散布が、陽鮮に対してどれだけ効果があるのかは、判らなかった。
 景紀もそれは理解していたようで、そこまで劇的な効果は期待していないようであった。あくまでも、脱出の時間を稼ぐために城内に一時的な混乱が起こってくれればそれでいいという考えなのだろう。

「本当に、あいつって性格悪いよな」

 ぶつくさと景紀への文句を言いながらも、式の操作にぶれはなかった。鉄之介もやはり、妖狐の血を引くが故にその霊的素質は高いのだ。

「あんたってホント、若様のことが嫌いなのね。まあ、性格悪いって意見には、何となく頷きたくなるとこはあるけど」

 くすりと笑って、八重が応ずる。

「あいつは、姉上をシキガミって言葉で縛り付けてるんだ。嫌いもするさ」

 ぶすりと言って、鉄之介は不機嫌そうに口元を曲げる。

「でも、冬花さんはそう思ってない気がするけど?」

「……」

 鉄之介も、姉が景紀に嫌々従っているわけではないことを理解しているので、黙り込んでしまう。景紀が姉を危険なことに巻き込んでいるのは納得がいかないが、その姉がそれを望んでいるようなのだ。
 弟として、何と言えばいいのか判らないというのが本音だった。

「私は冬花さんの気持ちは何となく判るわよ。もちろん、陰陽師なのに式神やっていることには、ちょっと違和感があるけど」

「何でだよ」

「そりゃあ、同じ女同士だからよ」ふん、と八重は誇るように鼻を鳴らした。「それに、冬花さんの在り方って格好良いと思うわ。女らしく淑やかにしろ、って学校じゃ散々言われてたけど、あんたのお姉さんみたいな生き方も出来るんだ、って思うと何だか勇気づけられるのよ」

「そうかい」

 姉のことを褒められて嬉しいが、少しだけ自分の中に釈然としないものが残る鉄之介。

「私に子供が出来たら、冬花さんみたいな形で若様の子供に仕えさせたいって思うわ」

「おまっ……!」

 何の衒いもなくそういう発言をされて、鉄之介は言葉を詰まらせて赤面してしまう。

「何よ、今更でしょう?」

 そんな鉄之介の様子を、八重はむしろ不思議そうに見ていた。

「あんた、意外に度胸あるし、術もどんどん上手くなってるんだから、私は認めてやってるのよ」

「お前なぁ……」

 八重のさっぱりとした性格は、本当にずるいと思ってしまう。

「まあ、そのためには生きて帰ることが第一なんだから、しっかりと与えられた任はこなすわよ」

「了解」降参とばかりに、鉄之介は八重の言葉に従った。「絶対、お前を連れて帰ってやるよ」

「ふふん、私もあんたを絶対に帰らせてあげるわよ」

 意趣返しのつもりで放った鉄之介の言葉は、八重の対抗心に満ちた言葉で不発に終わってしまった。
 でも、何だが息が合っているようで、これはこれで悪くないと陰陽師の少年は思うのだった。

  ◇◇◇

「くそっ、兵部省の連中も無理を言ってきやがる」

 景紀は苛立たしそうに頭をガリガリと掻いた。

「国王の安否確認と、生きていたら救出しろだと? この状況でそんな余裕があると思っているのか? だいたい、倭館防衛と完全に矛盾する命令だぞ」

「少し落ち着いて、景紀」

 苛立つ主君を、冬花は宥める。

「くそっ、だが政治的には一部正しい。国王の安否が不明のまま皇国が李熙王子を正当な次期国王として擁立すれば、それもまた皇国による傀儡政権だ、内政干渉だと国際的な批難を浴びかねない。だが、それを防ぐためには国王の安否確認だけでいいはずだ。生きて幽閉されていれば、それだけで王世子を批難する材料になる。兵部省の連中、いったい何を考えていやがる?」

 そもそも、救出するにしても、皇国軍が陽鮮国内で活動する法的根拠が不明確だ。貞英公主や熙王子からの依頼という形にすれば大義名分は得られるが、やはり法的根拠が曖昧であることに変わりはない。皇国軍はあくまでも秋津皇国の軍隊であり、他国の王族の指揮権に服しているわけではないからだ。
 苛々と景紀は室内を歩き回る。
 彼らのいる部屋は、会議室として使われていた東館の一室であった。今は畳がすべて取り払われ、板の間となった部屋に机や椅子が持ち込まれて臨時の指揮所となっている。

「伊丹・一色の横槍が入ったか、それとも私の陰陽師としての力を当てにしているとか?」

 そんな主君の様子を目で追いながら、冬花は言う。

「今の冬花に、そこまでの余裕はないだろ」

 自分のシキガミを、自分以外の人間が便利使いしていることが気に喰わず、景紀は吐き捨てるように言った。

「そりゃあ、そうだけど……」

 冬花は現状でも、結界の強化、帯城城内の情報収集、通信の送受信と呪術的にかなり負担がかかっている。これ以上は、如何に妖狐の血を引くために強い霊力を持つ冬花であっても、処理能力を超えてしまう。

「それに、兵部省からの通信では『可能ナレハ』って付いているわ」

「なら、現状、当部隊にその余力なし、倭館防衛に注力すと返しておけ」

「了解」

 そう言って、冬花は通信盤に向き直った。

「景くん、脱出経路の選定をしました」

 一方、机の上では定規と鉛筆片手に貴通が地図を向き合っていた。

「すまん、助かる」

 苛立ちは一旦横に置いて、景紀は貴通と共に地図を覗き込んだ。
 帯城から海岸線までは、最短で約二〇キロはある。しかも、その間には帯江が横たわっており、直線的に海岸に向かうのはまず不可能だ。

「今は雨季で川の水位も上がっています。無理に渡河しようとすれば、溺死する者たちもいるでしょう」

「帯江に橋が架かっていないのが難点だな」

 帯城南を流れる帯江には、橋が存在していなかった。東萊から帯城へ向かう際も、船を使ったのだ。恐らくは、王都防衛のためにあえて橋を架けていないのだろう。川というのは、それだけで天然の障害なのである。

「そこで、ここから三キロほどの地点に楊花津という河川港があります。そこで船を奪い、渡河するのです」

「俺たちも含めて、八〇人近い人間を渡らせることになる。船の数が少ないと、何度も往復することになる。時間がかかれば、追撃を受ける可能性が高くなるぞ」

「しかし、他に手がありません」

「ちょっといいかしら?」不意に、冬花が手を挙げた。「川の水をどうにか出来ればいいのよね? 八重さんに任せたらどうかしら? 雷系統の術式を多用する所為で忘れがちになるけど、龍王の血を引いているってことは、本来得意とする系統は水のはずよ」

「十字教の聖典にあるみたいに、川の水を割って渡河するってことか?」

「まあ、有り体に言えば。とはいえ、方法は八重さんに任せることになると思うけど」

「帯江の川幅は四百から五百メートルだぞ。渡りきるまで、あいつの霊力が持つか?」

「そこは、私と鉄之介が結界で水を支えるわ」

「……」

「……」

 景紀と貴通は互いに顔を見合わせた。

「ここは、冬花さんたちに任せましょう」

「ああ、そうだな」

 二人とも、結論は同じであった。

「そして、目標地点はここです」貴通は地図上の一地点を指で示した。「江蘭島。江蘭府が置かれ、王都・帯城に海から接近しようとする敵軍を迎え撃つために城塞化されています」

 江蘭島とは、帯江河口に位置する島である。ここには江蘭府が設けられ、島一帯は帯城へ向かう敵艦船の侵入を防ぐために砲台が設けられ、要塞化されているという。フランク軍とヴィンランド軍、二度の洋擾を撃退したのもこの要塞と守備隊であり、陽鮮はこの江蘭島を難攻不落の要塞と豪語しているという。

「軍艦外務令では、緊急時には邦人保護のために独自の行動を取ることが許されているが、なるべく現地の所轄庁の了解を得てから部隊を上陸させるようにとも規定されている。江蘭府の役人に話を付けてから上陸、ってのが法的には常道だな」

「ただ、江蘭府の陽鮮側役人が素直に応じるでしょうか?」

「その場合は強硬上陸になるな……」地図を見ながら、景紀は唸る。「……よし、公主殿下にまた書いてもらおう」

「江蘭府守令への書状ですか?」

「ああ、そうだ。どこまで効果はあるかは判らんが、少なくとも政治的正統性は確保しておくべきだろう。上手くいけば、江蘭府で保護してもらえるかもしれん」

「国内には景くんの敵が多いですからね。政治的・法的正当性は踏んでおかないと、例え上手く帰国出来たとしても攻撃されてしまいます。まあ、陽鮮国王救出の件で、早々にケチが付きそうですが」

「ったく、こういう国家の安危に関わる問題まで政争の具にする連中は全員氷の大地に送り込むべきだな。奴らは氷州の奥地で木でも数えてりゃいい」

 かなり本気の剣呑な口調で景紀は呟いた。

「……それで、上手く渡河出来たとして、問題は江蘭島までどのくらいかかるか、だ」

 気を取り直して、指揮官たる少年は訊いた。

「こちらは五歳児の李熙王子に宵姫様や貞英王女、倭館の女中たち女性陣が混じっています。軍人の我々だけならば渡河の時間も含めたとして八時間から十時間と見ればいいでしょうが、この人員では楽観的に見積もっても十二、三時間は超えます。途中で陽鮮軍と交戦する可能性を考えると、全員が江蘭府に辿り着くまで十五時間は見ておくべきかと」

「海軍部隊の到着時刻がいつになるのかにもよるな」

 上手く海岸で合流出来ればいいが、移動中に陽鮮の大部隊に捕捉されれば面白からざる結果になるだろう。それに、江蘭府がこちらを保護してくれる保障もない。

「佐瀬保から艦艇が派遣されるとして、到着までには二日はかかると見込めばいいか?」

「はい、僕もそう考えました」

 佐瀬保は、南嶺西部にある軍港である。天然の良港となっている佐瀬保湾には、鎮守府が置かれていた。

「とはいえ、冬花の通信が皇都に届き、それを受けて外務省と兵部省が動き、兵部省が佐瀬保近海に展開する艦艇に陽鮮行きを命じるまでに、どれくらいかかるかが問題だな」

 後世と違い、この時代、無線通信は存在しない。呪術通信がそれに相当するが、これは術者同士以外では事実上、不可能な通信方法である(術者が通信用に調整した呪具を用いれば、術者以外でも呪術通信は利用可能ではあるが)。
 そのため、景紀の側が冬花という通信手段を持っていたとしても、必然的に海軍部隊の到着までは時間がかかる。

「恐らく、どんなに急いでも海軍の出撃は明日以降になるでしょう」

「すると、海軍の到着は二十五日以降。そこから江蘭府と交渉し、陸戦隊を上陸させて帯城へ向かう。俺たちと陸戦隊が合流出来るのは早くて二十六日。最低でも、そこまでは倭館に籠ってなければならないわけか」

「はい。この人数です。むざむざ防御に適した拠点を捨てることはないでしょう。恐らく、それを見越して兵部省も別命あるまで倭館の防衛を命じてきたのだと思います」

「それに、倭館内であれば皇国が管理権を持つ敷地だから、俺ら軍人がどう動こうと国内法的に問題はない。だが、脱出するとなると他国の領域での軍事行動って解釈になる。奉勅命令(兵部大臣が皇主の命令を奉じて出す命令)もなしに動くと、伊丹や一色の連中が騒ぎ出しかねない」

 皇国の軍事制度では、出兵に際しては皇主の命令を必要とするということになっている。これは皇主を盟主とする六家が、他の諸侯が反乱を起こした際に“賊軍”、“朝敵”として鎮圧する根拠を得るために定められた制度であり、必然的に海外派兵に関しても適用されることになる。
 とはいえ、奉勅命令が出ていない状況であるのに陽鮮国王救出を命ずるなど、兵部省の命令にはいささか混乱が見られた。恐らく、皇都でも陽鮮での変事にどう対応すべきか、六家の横槍なども入って結論を下しかねているのだろう。

「とりあえず、脱出経路についてはこちらから兵部省に意見具申し、別命を待つべきでしょう。景くんの策と合わせて、江蘭府を海軍が上手く説得出来れば、陸戦隊は舟艇で帯江を遡上出来ます。そうすれば、僕たちは最悪でも楊花津まで辿り着ければいいことになりますから」

「現状では、それしかないか……」

 呪うように地図を睨みながら、景紀は呟くのだった。
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