陽の当たるアパート

なたね由

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 気が付くとライブは終わっていた。
 ステージの向かって左側ばかり見つめていたから、それ以外の場所で何が起こっていたかはまったく知らない。フロアの前の方にいた人たちと違って叫んだり身体を揺らしたりはしなかったはずなのに、喉はすっかりカラカラだし腹も減っている。アンコールが終わりライトが灯り、思い思いに感想を言い合う人たちが姿を消していく中、空のプラカップを無意識に握り締めて立ち尽くしていた。
「美弥、もう帰ったかな」
 我に返ったのは雅樹に声を掛けられてからだ。隣を見ると、スマートフォンを見る雅樹が、右手の親指で軽快に画面を叩いている。
「どうだろ。なんで?」
「せっかくやから、飯でも奢ったろか思ってんけど」
「友達と来てるって言ってたけど、……そう言ったら来そうだな、あいつ」
「分かるわ。でも、断られた」
 苦笑いで見せられた画面には、ご飯は今度奢って、とシンプルに飯を要求するメッセージと美弥の名前が表示されている。人懐っこさと素直さは美弥の長所だが、流石にここまでいくと図々しい。
「不肖の義妹で申し訳ない」
「いや、お前らこういうとこそっくりやで。一弥はどうする?」
「行く。いや、自分の分は自分で払うけど」
「遠慮すんなや」
 今になって気付くことがいくつもある。雅樹は最初から最後まで──俺が雅樹を好きになってから、振られるまでずっと、兄貴ぶった態度を崩さなかった。それは今でも変わらない。つまり出会った時から俺は雅樹にとって幼馴染で、可愛い弟以上にはなり得なかった。俺だっていつまでも弟ポジションに甘んじて、距離を離されない以外の努力なんてしなかった。それで好きになってもらおうなんてどの口で言えたのか。
 振られた直後は雅樹が卑怯だと思っていた。雅樹の態度はずっと変わらなくて、そうやって俺を突き放して分からせようなんて狡い、と。確かに卑怯かもしれないけれど、雅樹のそれは優しさでしかない。俺の傷ができるだけ浅くて済むように、俺が唯一甘えられる年上の大人をこんなことで失わないように。だからこうやって飯にも誘うし、気さくに話し掛けてもくる。突っぱねて背を向けて、空回っているのは俺の方だ。
「こんな時間から飯食えるとこある?」
「なんぼでもあるやろ。居酒屋とか、ラーメンとか、ファミレスとか」
「全部重たいじゃん」
「なんやお前。若いのに何言うてんねん」
「雅樹の心配してるんだけど」
「言うやんけ」
 子供みたいに頭を撫でられるのも、気付いてしまえば腹も立たなかった。始めっから叶わない恋だったんだ。雅樹はきっと早い段階で俺の気持ちを知っていて、兄らしくそれを見守って、然るべき時にきちんと突き放した。でもそれで関係が終わる訳ではないと、これからも兄でいてやると態度で示してくれていた。確かに卑怯だとは思う。けれどもし、振られた時にただ突き放されるだけだったら、俺は本当に立ち直れなかっただろう。小賢しくて卑怯なのは、俺の方だ。
 青柳のこともそうだ。
 あの時、自分とはタイプが明らかに違う見ず知らずの男を家に受け入れたのは、間違いなく失恋からくる気の迷いだった。うちに住み始めた青柳はその絶妙な距離感と他人への関心の薄さで、いつの間にか俺の一番近くに立っていた。本人にそんなつもりは無かったのかも知れない。あれはそういう男である。俺は今までの人生で、あんな風にするりと傍に近づかれたことがないから、それだけで困惑した。長年の片思いを経て振られたばかりだっていうのに、半年も経たないうちに別の奴を受け入れられる自分の軽薄さを、無意識のうちに責めていた気がする。貴倉がせっかくアドバイスしてくれたというのに、失恋したばかりなんだから早々に新しい恋なんて、見付けられる訳がないと決め付けていた。
「なあ、雅樹」
「なんや。人生相談か」
「そんなようなもん」
 結局腰を落ち着けたのは家の最寄りの駅前にある居酒屋で、歩いて帰れるという気安さからか、空きっ腹に流し込んだアルコールは実によく効いた。雅樹は教え子だというキーボード担当の話をしてくれたし、俺もなんとなく青柳と暮らし始めてからの話をした。たった数か月前に振られたばかりの相手に何を、と思うが、雅樹は昔からこうやって思春期の俺の悩みや仕事の愚痴なんかを、頷きながら聞いてくれた数少ない相手だったのだ。
「俺さ。好きな人できてもいいのかな」
「俺に聞く?」
「雅樹以外に聞ける奴がいない」
「お前ほんま、いい加減友達作れや」
「友達くらい、いるし」
「あの職場の先輩の奴とかゲームしてる奴やろ。そりゃゼロやないけど、もっとこう」
「話せないだろ。俺の恋バナとか、お前以外に」
「……いじらしいというか、何と言うか」
「惜しいことをした?」
「アホか」
「うん、割とアホなことを言った」
 雅樹が過剰に俺の世話を焼いてくれる時は、俺が本当に危なっかしいか、照れ隠しのどちらかだ。今、俺の皿に頼みもしないのにちくわの磯辺揚げを盛り上げたのは照れ隠しの方だろう。何に照れたのかは分からないけれど、なんだか勝った気になって自慢気に笑って見せる。それに応えて呆れたように笑った雅樹は、グラスに半分残った焼酎を飲み干した。
「ええに決まってるやろ」
「決まってるんだ」
「当たり前やん。そんなん、お前の好きにしたらええやん」
「好きにするって、もし俺が、雅樹のことまだ好きでも構わないんだ?」
「構へんよ。不毛やけどな」
「不毛って、美弥にも言われた。不毛通り越してハゲだって」
「相変わらず口悪いなあ、あいつも」
「今度叱ってやって」
「任せとけ」
 海鮮料理が美味くて値段も手ごろなこの店は雅樹に教わった。雅樹は俺の何歩も何十歩も先を歩いていて、呼べば立ち止まってくれる。でも、手を伸ばしただけじゃ届かない。そんな人を想い続けるのは確かに不毛だろう。だからと言って青柳を想うことが建設的だとも思わない。あいつにだって忘れられない人がいる。俺と同じで、離れたくても離れられない人だ。そんな人間同士が寄り添うのは、傷の舐め合いに他ならないんじゃないかと思う。そんな中であの日青柳が俺にキスをしたことだって、不慮の事故と思えば思えなくもない。
 でも、それは嫌だった。事故にするのは嫌だと思った。
 あの家に帰って、青柳の気配を感じられなくなることが我慢できないくらいに嫌だ。例えばその日いなくても、何日も帰らなくても、俺の家が青柳が帰る部屋ではなくなるのが嫌だった。青柳があの、深い深い青い水みたいな声で歌う男のことを想い続けていたとしても。
「好きなヤツ、できたん?」
「多分ね」
「ええやん」
 テーブルに置いたスマートフォンが震える。真っ暗な画面がほんのり明るくなり、メッセージが浮かび上がる。
『今日は帰れそうにないです。すみません』
 ぽそぽそと小さくて、柔らかくて、いつも聞き取りづらい、青柳の声が聞こえた気がした。青柳に会いたいと思った。目の前に雅樹がいるのに、多分始発で帰ってくるだろう青柳をあの部屋で待っていたいと思った。あんな、女の子たちの歓声を浴びて涼しい顔でベースを弾く青柳じゃなくて、ミリ単位でしか分からないくらいわずかに表情を動かした笑顔で、朝ごはん食べましょう、と俺に呼び掛ける青柳に会いたい。
 家で待ってる、と返すとピンポンのラリーみたいにメッセージが届く。
『明日、何食べますか?』
 どうせ明け方になってから、酔ってへろへろで帰ってくるくせに。きっとろくに飯なんて作る気力もないだろうに。
 二日酔いで青い顔をしながら冷蔵庫を覗く青柳のことを思い出したら、顔がにやついていたのだろうか。雅樹が小刻みに肩を震わせていた。
「若者はええなあ、微笑ましいわ。なんか見てると若返る気がする」
「だろ? だから、俺にしとけばよかったのに」
「ほんまやで」
「もう手遅れだけどな」
「残念やわ」
 明日考えようとだけ返信して、スマートフォンをテーブルに伏せた。取り皿に積まれた磯辺揚げに箸をつけると、向かいで雅樹がにやにやと笑っている。
 終わったんだなあ、と改めて思うとなんだか泣きそうになってしまった。二十年来の片想いはあっさりと打ち切られ、こんな居酒屋で穏やかに終焉を告げる。でも、ここ最近うじうじと殻に閉じこもって俯いているだけなんかより、ずっと健康的だ。
 ケリがつくというのはいいことだと思う。酒も美味いし、磯辺揚げだっていつもより美味しく感じたのはきっとその所為だろう。
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