陽の当たるアパート

なたね由

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 四月のある日、俺は俺に一番似つかわしくない街の、とあるライブハウスの前に立っている。
 入口まででいいから一緒に行ってくれ、と頼んだ美弥には「チケット取れた別の友達と行くから」とあっさり断られ、めちゃくちゃに心細い気持ちで俺は一人、ライブハウスの入り口に立っている。
 本当に何年ぶりだろう、と過去を振り返って、大学の時先輩の所属するアマチュアバンドのライブのチケットを無理矢理押し付けられたことを思い出した。そう考えるとたかだか数年前程度なのに、あまりにもなじみのない場所すぎて、どうしたってひるんでしまう。周りを見ても自分の場違いさが際立ってしまったように思えて、やっぱり一人で来るんじゃなかった、と何度も引き返しかけた。先週からライブに行く服装や持ち物を調べたり美弥に聞いたりして、ずいぶん楽しみにしてるんだね、なんてからかわれたけれど実質はそういうことじゃない。
 何せ、圧倒的に女性が多い。もちろん男性だっていない訳じゃないけれど、そういうのは大体数人でいたり彼女と一緒だったりで、本当にシンプルに一人でいる男の姿が俺以外目に入らないから、居た堪れなさがものすごいのだ。
 別に、誰かとコミュニケーションを取りに来たわけじゃない。青柳のバンドを見に来ただけだ。どうしても居心地が悪いならいっそ美弥でも探すか、と思ったけれど友達と一緒に来ているというのに、邪魔をするわけにもいかないし。
 そういう訳でチケットに印字されたライブハウスの名前と看板を何度も見比べ、深呼吸を四度して意を決したところで突然背中を叩かれ、ちょうど吸い込んだ息の所為で咽てしまった。路上でみっともなく咳き込む俺の背中を叩いた張本人は、悪い悪いと軽い口調で言いながら俺の背中を撫でている。誰だ、と聞くまでもなかった。浮かんだ疑問はそちらではない。
「何でお前がいるんだよ」
「俺もびっくりしたわ」
 聴き慣れたというには慣れ過ぎた声。本人は「すっかり抜けた」と言い張る独特のイントネーションと言葉遣い。押したら押した分だけ沈んでいくような手応えのない態度。
「そうか、お前一緒に住んでんねやったな」
「デカい声で言うなよ。なんで知ってるんだよ」
「こないだ会ったやん。コンビニ閉まるで、言うてた子」
 それはそうだ。いくら夜中だったとは言っても、踊り場には灯りもあるし顔くらい見ているだろう。しかも雅樹は教師で人の顔を覚えるのが得意だ。青柳だってきちんと(多少刺々しくはあったけれど)挨拶までしたのだから、覚えていない訳がない。しくじったな、と思い、その後すぐに何を、と考え込んでしまう。
「雅樹は、なんで」
「チケットもらった」
「誰に?」
「メンバーの子、俺の教え子やってん。お前、知らん? キーボード弾いてるヤツ」
「そりゃ、動画とかでは見たことあるけど」
「会うたことないんや」
「ないよ」
 ほな行こか、と雅樹が俺の腕を掴む。考えるより先、何が起きたのか把握するより先になんでだよ、という言葉が口をついた。
「いや、せっかく会うたし」
「一人で行けばいいだろ」
「あれ。誰かと待ち合わせでもしてる?」
「一人ですけども」
「じゃあええやん。一緒に来てや、おっさん、心細くてしょうがないねん」
「お前マジでなんで来たんだよ」
「可愛い教え子の晴れ舞台やん、見たいやん、チケットくれるって言うたら行くやん。ここであんまり駄々こねると目立つで」
「じゃあとりあえず腕を掴むな、離せ。その方がよっぽど目立つだろ」
「えー。迷子になれへん?」
「なるとしたらお前の方だろ。でっかいからすぐ見つかるし、心配すんな」
 どうしたって言い合いでこいつに勝てる道理がないのだ。雷や波の音が怖くて泣いたことや、たまたまテレビで見た心霊特番が怖くてトイレに行けなかったことや、妙にひねくれて雅樹にだけ生意気な口を利いていた子供の頃の話なんかも、こいつは全部知っている。弱みを握られている、というやつだ。そしてそれ以上に、俺は未だにこいつが俺に対する興味を失うことが恐ろしい。例えばここで頑なに同行を拒んで、それなら一人で行く、とあっさり引かれでもしたら、拒絶されたのかなんて考えてしまってこの後落ち着いてライブなんて楽しめっこない。それなら多少居心地が悪くたって、素直に受け入れたほうが楽だ。ライブが始まってしまえば、どうせお互いなんて気にしている暇もないのだし。
「それにしても意外だな」
「何が?」
 ドリンク代を払い、できるだけフロア後方の隅っこに陣取ると、雅樹も俺に従った。あんまり前に立つと邪魔やろ、と言うのは間違いない。さっき外で見た通り、周りは女性ばかりだ。ざっと見ても雅樹より大きい人間はそう見当たらない。
「教え子の晴れ姿を見たいとか、お前そういうタイプじゃないだろ」
「何言うてんねん。俺はそういうの見たがるタイプやぞ。お前の高校の文化祭も見に行ったやんか」
「全力で拒否ったのにな」
「ツメが甘いねん。美弥にチケットやったら俺んとこ回ってくるやろ、普通に考えて」
「裏切者どもめ」
 落ち着かない。
 ドアの傍に立ってしまった所為だ。入ってきたお客さんがちらちらこちらを見てくるのが気になって仕方がない。ちびちびと飲んでいたはずのビールは、いつの間にかプラカップの半分まで減ってしまっている。飲みきった方が始まった時邪魔にならなくていいから、と言う雅樹は手慣れた様子でペットボトルの水を頼んでいた。慣れ、なんだろうか。
「誰かと来たこと、あんの」
「慣れてる?」
「うん」
「昔はな。今日はめちゃめちゃ久しぶりやで。この辺も全然変わってもうてるしな」
「……昔の男?」
「野暮やで」
 つくづく子供扱いされているな、と思う。八センチ下から見上げる顎のラインに剃り残しのヒゲが見えた。雅樹はいつも緩くて、自然で、飄々と生きている。それに追い付きたくて必死に追い掛け続けてる俺では、並び立てないのは最初から分かっていたことなのに。あの時、やっぱり謝るべきは雅樹じゃなくて俺だったんだ。
 好きだったんだ、と思い知る。この先絶対、何があってもどう転んでも、この人が俺をそんな風に見ることはない。それでも時々立ち止まって振り返って、大丈夫かって声を掛けてくれる。それはとても心強く、そしてひどく残酷な仕打ちだ。それでも、この人の隣に並ぶ為に費やしてきた俺の二十年は、きっと、絶対に無駄ではないと思う。
 だってもう、苦しいとは思わなかった。雅樹の視線がどこか知らないところを見ていることも、時々俺を見る視線が柔らかく、弟を見守るみたいな優しさしかないことも、それで良かったんだ、と思う。どういう心境の変化かは分からないけれど、もう大丈夫だ、と。きっとこれから先も雅樹のことは好きで、譲れなくて、こいつに新しい男が出来たら辛いし苦しい。でもきっと、それだけだ。
「なあ、雅樹」
「なんや。もう始まるで。電気消えたら大人しくしときや」
「小学生じゃねえんだよ。……今まで、ありがとな」
「何がやねん。今生の別れか」
「俺、雅樹みたいな兄ちゃんがいて良かったよ」
 フロアに流れていたBGMが徐々に大きくなる。観客が一瞬ざわめく。じわじわとフロアに広がる暗がりの中で、雅樹の手のひらが俺の頭のてっぺんに触れた。いつもなら馬鹿にするなとか、子ども扱いするなとか言うところだけれど、今日はなんだか落ち着いて受け止められた気がする。
「そっか」
 暗がりの中でステージに光が灯る。たった数ヶ月だけど、すっかり俺の生活の中に馴染んでしまった男が、歓声に包まれて光の中に現れた。馬鹿丁寧なお辞儀をして、ストラップを肩に掛けて、ベースを構えて合図を待っている。
 隣に立つ雅樹のことはもう気にならなかった。このフロアのどこかにいるだろう、美弥のことも。
 恋なのだと言われてもやっぱり分からない。それでも、指を立てて弦を押さえる青柳の姿に黄色い声を上げるファンに、普段はもっとだらしないところもあるんだぞなんて優越感を持ってしまうくらいに、俺は青柳を拠り所にしてしまっている。それが好きだと言う気持ちなのか、ただの依存なのかは分からない。でも何故か、ステージの上で深夜の水族館みたいに響く声で歌う男と時折アイコンタクトを取る青柳を見て、言い様のない感情を持ってしまうのもまた、俺の素直な気持ちだった。
 海外のティーンの恋愛ドラマじゃあるまいし、と思う。手近な世界でくっついた別れたを繰り返す、陳腐な群像劇みたいに、たまたま現れてたまたまうちに住み着いた相手に、振られたばかりだからと言って恋心を抱いてしまうなんて、あまりにも安上がりすぎやしないか、と。
 誰が聞いている訳でもないモノローグでさえ言い訳をしてしまうのは、美弥の言う通り俺の悪い癖だ。肯定的に考えてみなよ、と美弥は言ったけれど、こんな曖昧な気持ちのまま好きだなんて結論は出せそうにない。大体、日々の生活に対しての気配りが細やかだとか、深夜の映画鑑賞に付き合ってくれるだとか、真面目な顔して言う冗談だとか、そんなところが好きだと言われたって、青柳だって困るだろうし。
「あ、そっか」
 つぶやいた声に、雅樹がこちらを見た気がした。俺の声はそのまま歓声に紛れて消えて無くなる。ステージの上の青柳は、相変わらず長い前髪と眼鏡で表情を隠したまま、一心不乱にベースの弦を押さえている。
 恋かどうかは分からない。でも、ファンの子たちに対して優越感を持つ程度に、今居なくなられると困ってしまうと困ってしまうと考えてしまう程には、青柳のことを好きになってしまっているという事実がそこにあった。
 そんなの、分からなくて当然だ。だって、俺が新しい恋を始めるのは実に二十年ぶりなのだから。
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