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第16話
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日が暮れる頃に港町についた三人は宿に泊まり、明朝船に乗り込んだ。
「うっ……」
吐き気がこみ上げ、クエルチアは近くに置いた桶をたぐり寄せる。
戻しはしなかったものの、胃を締め付けられるような吐き気が止むことはない。
他にも乗り合わせた者はハンモックで寝ているか、酒を飲むか、今のクエルチアのように船酔いと戦っているかだった。
生気のない船室に嫌気が差し、新鮮な空気を求めてクエルチアは甲板に向かった。
ただでさえ狭い通路を人より大きなクエルチアは身を縮こませながら通り抜ける。
やっとたどり着いた扉を潜ると、風が吹き抜け思わず目を閉じる。
乱れた薄茶の前髪を整えながら辺りを見回した。
薄く雲がかかった空の下、海面に波を立たせながら地平線まで群青の海が広がっている。
左には半島が霞がかって見えた。
空気は湿って海独特の匂いを運んでくる。
マスクを外して思い切り空気を吸い込むと、肺が洗われるような気持ちになる。
邪魔にならないよう隅に行くと、ディヒトバイが船の縁に寄りかかって立っているのを見つけた。彼もクエルチアに気付き、口を開いた瞬間にアカートの陽気な声が割って入った。
慌ててマスクをつける。
「大丈夫か? 一日もすりゃ慣れると思ったが、そうもいかないみたいだな」
「明日も船の上なんて信じられませんよ……」
アカートに答えながらクエルチアはディヒトバイに視線を向ける。
出端をくじかれた彼は海を見ていた。
「ブル・マリーノは海が苦手か。名前負けだな」
「俺が海を渡ったのは赤ん坊の頃ですよ。船に乗ったこともわからないくらいの」
「そりゃ船酔いも関係ないな」
言いながらアカートは手近な木箱に腰掛けた。
「凪で速度が出ないんだそうだ。この調子じゃ余計にかかるかもな」
「本当ですか?」
クエルチアは思わず大きな声を出してしまった。
「ま、今日が駄目でも明日には慣れるかもしれねえし。そう慌てるなよ」
アカートがそこまで言ったとき、船乗り達がざわめいた。
「なんだ、あの泡は」
船乗りがそう言って右舷側に集まり、海のある一点を見つめている。
「どうかしたのか」
アカートも気になったのか立ち上がったが、人が邪魔をしてその先は見えない。クエルチアは身長のおかげで人の向こうを見ることができた。
「泡? お湯みたいに、ぶくぶくと湧いてます」
「泡だと、まさか……!」
それを聞いてアカートが顔を引きつらせた瞬間、泡の中から水柱が立った。
その中にうごめいていたのは、褐色をした吸盤のついた巨大な触手。
「クラーケンだ!」
雨のように海水が降り注ぐ中、手で顔を庇いながらアカートが言う。
その視線の先には何本もの水柱が立ち、その中から触手が姿を現していた。
「これが?」
クエルチアも名前だけは聞いたことがある。海に出る魔物で長い触手を持ち、近づく船は全て沈めることから、船乗り達が恐れる存在だと。
「船を守れ」
ディヒトバイはクエルチアの肩を叩いてそれだけ言うと、船の縁を飛び越える。
落下する中で魔鎧を纏い、赤狼は海に降り立った。
そのまま姿勢を低くし水面を蹴って一目散に触手へと走る。
「なんだありゃ、海の上を走ってるってのか?」
驚きと呆れの間のような声でアカートが言う。
気がつけば船は三本の触手に囲まれていた。
触手はうねりながら船に手を伸ばそうとしている。
クエルチアも魔鎧を纏い、すぐ近くまで触手が迫っている船尾へと走り出す。
突然、触手の一本が激しく暴れて海に沈み始めた。
その触手は海面に出た根元から先が両断されている。
アカートが目を向けると、赤狼は別の触手へと向けて走り始めたところだった。
「切っただと……!」
二本目の触手すら容易く切り落とし、赤狼は最後の触手に走り寄る。
剣を構えて横に薙ぐと触手は真っ二つにされた。
意思をなくした触手は蛇のようにのたうちながら、飛沫を上げて海に沈んでいく。
その飛沫の中から新たな触手が伸び、不意を突かれた赤狼に巻き付いた。
「ディヒトさん!」
船の上からクエルチアは叫ぶ。
辺りを見回して他に触手がいないことを確かめると海に向かって飛び降りる。
体が宙にあったのも束の間、海の上に着地した。
軟らかい土を踏んでいるようだ。
わずかに足が沈みこむものの、水の中に落ちていくことはない。
それを確認すると触手に向けて走った。
自分を攻撃する異物を捕らえ、触手は海の中に潜っていく。
「待て!」
このままでは触手にたどり着く前に海に逃げられてしまう。
それを察したクエルチアは足を止め、回転を利かせて戦斧を投げた。
戦斧は弧を描き、のこぎりのように触手を切断する。
しかし触手は切られてもなお赤狼を放さず、赤狼もろとも海に沈もうとしている。
クエルチアが追いついた頃には触手はわずかに先端が見えるくらいだった。
息を整える暇も惜しいと思いながら魔鎧を解き、息を吸い込んで海に飛び込む。
朧気な視界の中で赤狼を探す。
深くを見つめると触手の大きな影の中、鮮やかな赤が見える。
力尽きた触手でも巻き付く力が強いのか抜け出せずにいるようだ。
一層深く潜り、その赤い姿に近付く。
手を伸ばすと赤狼がしっかりと腕を掴んだ。
それを確認すると腕を引いたが触手が海に沈む力のほうが強く、腕ごと持っていかれそうになる。
赤狼が首を横に振ったように見えた。
それを見ないふりをして赤狼の腕を手繰り、巻き付いた触手を剥がそうとする。
ぬめった触手はまともに掴むことさえ許さなかった。腰に差したナイフを抜き、触手に突き立てる。
水面はすでに遙か上方にあり、海水で少しずつ減衰した光は希望のように思える。
息ももう長くは保たない。
それでも諦めることはできなかった。
何度もナイフを突き立て、やっと触手が力を失い赤狼を解放した。
その時にはクエルチアの意識は薄靄に包まれたようで、水面がどこにあるかもわからなかった。
唇に、柔らかいものが触れた気がした。
「うっ……」
吐き気がこみ上げ、クエルチアは近くに置いた桶をたぐり寄せる。
戻しはしなかったものの、胃を締め付けられるような吐き気が止むことはない。
他にも乗り合わせた者はハンモックで寝ているか、酒を飲むか、今のクエルチアのように船酔いと戦っているかだった。
生気のない船室に嫌気が差し、新鮮な空気を求めてクエルチアは甲板に向かった。
ただでさえ狭い通路を人より大きなクエルチアは身を縮こませながら通り抜ける。
やっとたどり着いた扉を潜ると、風が吹き抜け思わず目を閉じる。
乱れた薄茶の前髪を整えながら辺りを見回した。
薄く雲がかかった空の下、海面に波を立たせながら地平線まで群青の海が広がっている。
左には半島が霞がかって見えた。
空気は湿って海独特の匂いを運んでくる。
マスクを外して思い切り空気を吸い込むと、肺が洗われるような気持ちになる。
邪魔にならないよう隅に行くと、ディヒトバイが船の縁に寄りかかって立っているのを見つけた。彼もクエルチアに気付き、口を開いた瞬間にアカートの陽気な声が割って入った。
慌ててマスクをつける。
「大丈夫か? 一日もすりゃ慣れると思ったが、そうもいかないみたいだな」
「明日も船の上なんて信じられませんよ……」
アカートに答えながらクエルチアはディヒトバイに視線を向ける。
出端をくじかれた彼は海を見ていた。
「ブル・マリーノは海が苦手か。名前負けだな」
「俺が海を渡ったのは赤ん坊の頃ですよ。船に乗ったこともわからないくらいの」
「そりゃ船酔いも関係ないな」
言いながらアカートは手近な木箱に腰掛けた。
「凪で速度が出ないんだそうだ。この調子じゃ余計にかかるかもな」
「本当ですか?」
クエルチアは思わず大きな声を出してしまった。
「ま、今日が駄目でも明日には慣れるかもしれねえし。そう慌てるなよ」
アカートがそこまで言ったとき、船乗り達がざわめいた。
「なんだ、あの泡は」
船乗りがそう言って右舷側に集まり、海のある一点を見つめている。
「どうかしたのか」
アカートも気になったのか立ち上がったが、人が邪魔をしてその先は見えない。クエルチアは身長のおかげで人の向こうを見ることができた。
「泡? お湯みたいに、ぶくぶくと湧いてます」
「泡だと、まさか……!」
それを聞いてアカートが顔を引きつらせた瞬間、泡の中から水柱が立った。
その中にうごめいていたのは、褐色をした吸盤のついた巨大な触手。
「クラーケンだ!」
雨のように海水が降り注ぐ中、手で顔を庇いながらアカートが言う。
その視線の先には何本もの水柱が立ち、その中から触手が姿を現していた。
「これが?」
クエルチアも名前だけは聞いたことがある。海に出る魔物で長い触手を持ち、近づく船は全て沈めることから、船乗り達が恐れる存在だと。
「船を守れ」
ディヒトバイはクエルチアの肩を叩いてそれだけ言うと、船の縁を飛び越える。
落下する中で魔鎧を纏い、赤狼は海に降り立った。
そのまま姿勢を低くし水面を蹴って一目散に触手へと走る。
「なんだありゃ、海の上を走ってるってのか?」
驚きと呆れの間のような声でアカートが言う。
気がつけば船は三本の触手に囲まれていた。
触手はうねりながら船に手を伸ばそうとしている。
クエルチアも魔鎧を纏い、すぐ近くまで触手が迫っている船尾へと走り出す。
突然、触手の一本が激しく暴れて海に沈み始めた。
その触手は海面に出た根元から先が両断されている。
アカートが目を向けると、赤狼は別の触手へと向けて走り始めたところだった。
「切っただと……!」
二本目の触手すら容易く切り落とし、赤狼は最後の触手に走り寄る。
剣を構えて横に薙ぐと触手は真っ二つにされた。
意思をなくした触手は蛇のようにのたうちながら、飛沫を上げて海に沈んでいく。
その飛沫の中から新たな触手が伸び、不意を突かれた赤狼に巻き付いた。
「ディヒトさん!」
船の上からクエルチアは叫ぶ。
辺りを見回して他に触手がいないことを確かめると海に向かって飛び降りる。
体が宙にあったのも束の間、海の上に着地した。
軟らかい土を踏んでいるようだ。
わずかに足が沈みこむものの、水の中に落ちていくことはない。
それを確認すると触手に向けて走った。
自分を攻撃する異物を捕らえ、触手は海の中に潜っていく。
「待て!」
このままでは触手にたどり着く前に海に逃げられてしまう。
それを察したクエルチアは足を止め、回転を利かせて戦斧を投げた。
戦斧は弧を描き、のこぎりのように触手を切断する。
しかし触手は切られてもなお赤狼を放さず、赤狼もろとも海に沈もうとしている。
クエルチアが追いついた頃には触手はわずかに先端が見えるくらいだった。
息を整える暇も惜しいと思いながら魔鎧を解き、息を吸い込んで海に飛び込む。
朧気な視界の中で赤狼を探す。
深くを見つめると触手の大きな影の中、鮮やかな赤が見える。
力尽きた触手でも巻き付く力が強いのか抜け出せずにいるようだ。
一層深く潜り、その赤い姿に近付く。
手を伸ばすと赤狼がしっかりと腕を掴んだ。
それを確認すると腕を引いたが触手が海に沈む力のほうが強く、腕ごと持っていかれそうになる。
赤狼が首を横に振ったように見えた。
それを見ないふりをして赤狼の腕を手繰り、巻き付いた触手を剥がそうとする。
ぬめった触手はまともに掴むことさえ許さなかった。腰に差したナイフを抜き、触手に突き立てる。
水面はすでに遙か上方にあり、海水で少しずつ減衰した光は希望のように思える。
息ももう長くは保たない。
それでも諦めることはできなかった。
何度もナイフを突き立て、やっと触手が力を失い赤狼を解放した。
その時にはクエルチアの意識は薄靄に包まれたようで、水面がどこにあるかもわからなかった。
唇に、柔らかいものが触れた気がした。
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