上 下
15 / 32

第15話

しおりを挟む
 出立の日の朝、不安を抱きながらクエルチアは荷下ろし場に向かった。
 ディヒトバイは契約を反故にするような人間には思えなかったが、彼の姿が見えないまま出立の日を迎えるとなると不安が胸を埋め尽くした。
 荷下ろし場の隅に停まった馬車の近くに見慣れた姿があった。
 撫でつけた焦げ茶の髪、同じ色をした口と顎の髭。
 黄金色をした鋭い三白眼。
 臙脂の質素な上衣に革のズボン、膝丈のブーツ。
 腰には真紅の鞘の剣。
 いつもと変わらぬすらりとした立ち姿を認めて、やっと安堵に胸を撫で下ろした。

「ディヒトさん」

 馬車の馬を眺めていたディヒトバイに声をかける。
 喜びの色を隠そうとしたが、それでもわずかに声が上擦った。
 しかし彼はそれに気付いた風もなく、クエルチアのほうを向いて口を開いた。

「すまねえな。酒を抜くのに時間がかかった」

 短く簡潔に済ませる言葉もいつも通りで、ディヒトバイが本調子に戻ったことを示していた。

「お、揃ったな」

 二人に背後からアカートが声をかけた。
 紫紺の服の上に亜麻の外套を羽織り、肩から革の鞄を二つかけている。
 にやにやとした笑顔はいつも通りのようだった。

「先に乗っててくれ」

 言ってアカートは馬車を指すと、二人は馬車に乗り込んだ。
 馬車は大きなもので二人並んで座っても余裕があった。
 ディヒトバイが先に座ると対面を指す。クエルチアの体の大きさを鑑みて席を広く使っていいということらしかった。
 小さな窓からアカートが誰かと話す後ろ姿が見える。
 見送りだろうか。
 その割にはキースチァの姿が見えない。
 朝の見送りは辛いものがあるのかもしれない。
 そういえば、近くにキースチァ付きの従僕が立っていたように思う。
 彼に見送りを託したのだろうか。
 しかしクエルチアの予想と違って、アカートの後ろ姿は親しい相手と名残惜しげに抱擁を交わしたのだった。
 アカートが振り返ったのでクエルチアは慌てて視線を外した。
 アカートは馬車に乗り込むと、空いているディヒトバイの隣に座る。
 それを確認してクエルチアは壁を軽く叩いて御者に合図した。
 少しの間を置いて馬車が動き出す。

 フリースラントに乗る船はこの街、ファルケンベリから北の港町から出るため、まずはそこに移動しなければならない。
 そこまではキースチァが馬車を出してくれるという話だった。
 馬車で一日かけて港町へ行き、船で西に進み二つの海峡を通り抜けて半島を回り込むように南下する。
 そうしてフリースラントに着く予定だ。

「詳しい話を聞かせてもらおうか。フリースラントに行って何をするんだ」

 ディヒトバイが目線だけをアカートに向けて尋ねると、アカートは咳払いをしてから答えた。

「出るはずのない魔物が出る。その調査だ」
「出るはずのない魔物?」

 クエルチアが鸚鵡返しに問うと、アカートは頷いた。

「どこから話したもんか……。まず、魔物というのは架空の生き物が形を得たものだ。主に神話や伝承などからその形が写し取られるが、野放図に生まれるわけじゃない。空を飛ぶラミアはいないし、陸に上がるセイレーンはいない。魔物は自分の伝えられた伝承に忠実な環境で現れる。魔物について分かっていることは少ないが、それだけは確かだ」
「それを覆すような魔物が現れたってことですか」
「そうだ。理解が早くて助かる」
「どんな魔物なんです」
「スキュラだ」

 聞いたことのない名前にクエルチアはディヒトバイのほうを見る。ディヒトバイも心当たりのない様子で軽く首を振った。
 アカートは芝居がかったように、誰かに向けて祈る仕草をした。

「かの人を語ってください、ムーサよ」
「なんですか、それ」

 クエルチアが怪訝な目を向けると、アカートはやれやれと首を振った。
「俺はこれから、かのオデュッセイアの内容を語るんだぜ。文芸の女神であるムーサに祈りを捧げないわけにはいかないだろう? 今や俺の身にムーサが宿り、俺の口を使ってかの英雄の偉業を語り始め……」
「仕事と関係ない話はいいです」

 クエルチアがばっさり切り捨てると、アカートはしょんぼりと肩を落とした。

「ちょっとした洒落だろ、それくらい許してほしいぜ」
「洒落は通じる相手に言うものですよ」
「真面目なだけじゃ食いっぱぐれるぞ」

 負け惜しみのように拗ねながらアカートが言うと、咳払いをして仕切り直した。

「スキュラとは古代ギリシアの叙事詩オデュッセイアに出てくる魔物で、上半身は美しい女、腰には六つの犬の頭、十二本の犬の足、下半身は魚という姿をしている。魚の姿があるように、こいつは海に出る魔物なんだ。それがフリースラントの森の中に出るという噂が最近出回っている」
「それで出るはずのない魔物、ということなんですね」
「そうだ。退治が遅れたんで他の地域にも噂が出回った。教会は前から魔物の生態を知ることに乗り気だったが、大体が調査に乗り出す前に倒されちまうんで思ったように進んでないんだ。そこに今回のスキュラの噂をどっからか嗅ぎつけて調査するようお偉いさんが決めた。決めたはいいが、現場としては場所が遠くて他に先を越されるかもしれないってんで及び腰だ。そこで俺一人だけを現地に送って、外には調査したという名目を立てて、何もなければそれでよし、何かあったら手柄を横取りという、俺以外は損をしない絵が描かれているわけだ。貧乏くじを引かされた身にはつらい話だがね。何か質問は?」

 アカートは自分の話をそう締めくくった。

「どうして代書屋にそんな話が回ってくるのか以外は理解しました」
「さっきから当たりがきついが俺が何かしたか? 副業だよ、教会にコネがあるっつーか借りがあるっつーか。隠居生活にも飽きたんでな。ずっと山の中に引きこもってるんじゃ、子供の情操教育にも悪い」
「こ、子供って?」

 アカートから出た予想外の言葉に、クエルチアは珍しく大きな声を出した。

「俺にそんな甲斐性があると思うか? 友人の子供の後見人なんだよ。親を亡くしたんで俺が引き取って、キースのところで働かせてもらってんだ」
「ああ、見送りに来ていたのはその人でしたか。ちょっと驚きましたけど安心しました。でも、自分で自分を傷つけるようなことはあんまり言わないほうがいいですよ」
「真っ当なご忠告痛み入る。自虐は控えるとしよう」

 アカートは引きつった笑みを浮かべながらクエルチアの言葉に頷いた。
 窓の外を見ていたディヒトバイがアカートに尋ねる。

「質問があるかと言ったな。お前、魔法は使えるか」
「使えるといえば使えるが、ただの一般人と思ってくれ。苦手なんだ」
「そうか」

 アカートの返事を聞くとディヒトバイは一言だけ返し、寝ると言って腕を組んで目を閉じてしまった。

「余裕があるねえ。いい護衛を雇ったもんだ」
「そういうことを言うからディヒトさんに嫌われるんですよ」

 クエルチアが窘めるように言うと、アカートはわざとらしく首を竦めてみせた。


しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

全寮制の学園に行ったら運命の番に溺愛された話♡

BL / 連載中 24h.ポイント:198pt お気に入り:1,612

この噛み痕は、無効。

BL / 完結 24h.ポイント:35pt お気に入り:223

イケメン大好きドルオタは異世界でも推し活する

BL / 完結 24h.ポイント:319pt お気に入り:2,974

家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!

BL / 完結 24h.ポイント:35pt お気に入り:165

伯爵夫人Ωの攻防

BL / 完結 24h.ポイント:42pt お気に入り:225

処理中です...