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恋の片道切符

藤堂皐月について

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次に目覚めた時は辺りはもう暗く、千鶴の姿は無かった。

空になった両手と額が急に冷たく感じられ、あの熱を恋しく思う自分がいた。



「目が覚めたね」


「……」


ベッド脇のパイプ椅子には、ついさっきまで千鶴が座っていた。

今は白衣姿の男性が腰を下ろしている。


「酸素吸入器も着けずに騒いでいたら、いつまで経っても治らないよ?」


片手で点滴の速度を調整しながら、医者は諭すように話した。

私は鼻から送られる新鮮な酸素をぎこちなく吸い込み、視線を泳がせる。


「土屋さんは、ずっと入院していたいのかな」


見下ろされた視線に胸が軋んだ。

ずっと入院していたい?
冗談じゃないわ。
一刻も早くここから出たい。

病院は大嫌いだ。


「検査は明日に延期だよ。
恐らく、2週間以上はここにいてもらう事になるだろう。
逃げ出しても駄目だよ。君の悪い癖だからね」


逃げ出す……?
誰の悪い癖だって?

思わず医者の顔を睨んでしまった。

中年と呼ぶにはまだ若い風貌の彼は同情するほど疲れ切っており、一層老け込んで見えた。

若干白髪が交じった眉を吊り上げると、私の視線に気付き口元を緩ませる。


「覚えているんだよ。
以前にも君が同じ肺炎で入院していた頃をね。
君ときたら散々院内中を逃げ回って……苦労したのを覚えている。
懐かしいね」


突然のフラッシュバックに、目の前がチカチカと点滅した。

引きずる酸素ボンベがやけに重たかったのを覚えている。

そうか、私は10年前と同じ病院にいるのか……。


「不躾な事を聞くようですまないが……君は藤堂皐月を覚えているかい?
今君が寝ているベッドは、彼女が寝ていたベッドなんだよ」


「——っ!」


「いや、意図的にそうしたわけじゃあ無いんだよ。偶然空室だったのさ、不思議なものだね」


まるで行きつけのバーで己の人生観を喋り出す、ほろ酔いオヤジを思わせた。

憂いを含めたような渋い溜め息が、部屋の雰囲気を重くする。


「妹なんだよ」


「……妹?」


「皐月は私の妹なんだ」


 



 
 
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