その出自ゆえに起業家のための理論と思われがちなエフェクチュエーション理論ですが、閉塞感を抱える大企業や老舗企業がイノベーションを起こすうえでもきわめて有効です。150年の歴史を誇る丸善で丸の内本店の店長を務める篠田氏の危機意識とそれに突き動かされるように始めた行動は、まさしく先に挙げた「レモネードの原則」になぞらえることができます。
コロナ禍のある日、ふと思いついて秋葉原を訪れた篠田氏は異様な光景を目にします。外出自粛により、いつもの活気が嘘のように静まり返る街に、1軒だけお客であふれるアニメショップがあったのです。覗いてみると、先行販売や限定販売など、その店でしか買えないグッズにファンが群がっています。お客同士の会話に耳を傾けてみると、SNSの告知で情報をキャッチして、この店に来るためだけに遠くから来た人も多いようでした。
「どんな状況下でも気持ちを揺さぶられる対象、そこにしかない付加価値の高いものがあれば人は足を運ぶことを思い知らされました。では、私たち書店が提供できる価値は何か。考え抜いてたどり着いたのが、絵本雑誌『MOE』から生まれたグッズを販売するポップアップショップです」
早速『MOE』(白泉社)の協力を仰ぎ、絵本の主人公やストーリーをモチーフにしたオリジナルグッズを製作。貴重な複製原画やバックナンバーなどと一緒に並べて、絵本の世界を丸ごと楽しめる空間を作り出します。
そんな売り場の様子をSNSで発信すると、熱心なファンが全国から訪れ、先を競うようにグッズを買っていきました。リアル店舗ならではの絵本の世界に没入する体験価値は、コロナ禍でも、わざわざ足を運ぶに値するものだったのです。
絵本や雑誌の売り上げも3倍程度にまで増えたそうです。かねて「仕入品を売るだけのビジネスからの脱却」をめざしていた篠田氏にとって、主力の書籍販売との相乗効果が期待できる新規事業の好スタートは手応えを感じさせるに十分でした。
2021年には、さまざまな出版社の絵本の主人公やストーリーをモチーフにしたグッズを販売する「EHONS」が常設売り場として丸の内本店にオープンします。自社がプロデュースするオリジナルアイテムに加え、独自の選択眼が光る他社グッズも並ぶ、言ってみればセレクトショップのような存在です。
「EHONS」は、他の売り場をはるかに上回る坪売り上げを記録し、2022年には大阪、2023年には福岡にも出店を拡大しました。
緊急事態宣言という誰も予測しえない事態を次の成長の機会にできたのは、現実を受け入れたうえで、新たな環境の中で生じた人々の行動変化を見落とさず、それを積極的に活用するアイデアに最大限の柔軟性をもって対処したからにほかならないでしょう。
本を仕入れて売るのと、グッズを一から製作して売るのでは、同じ小売りとはいえ、全く別のビジネスです。丸善にそれができたのは、もともと持っていた資源を、新規事業の創出にも有効に活かすことができたためでした。