私の診療所に通院している、とある高齢者の患者さんがよく言う口癖に、「こんなに長生きしてもねえ、何もいいことないですよ」というのがあります。
90歳を過ぎて、一人で歩いて外来診療に来られており、そのこと自体、驚異的なことだと思うのですが、本人はそんな愚痴しかこぼさないのです。
この方以外にも、長生きしている方には愚痴が多く、「いやー、今日も充実した日ですね」と言う人はまずいません。
多くが、身体や家族の不満を私に漏らしていくのです。
医師として若くして亡くなった人をたくさん見てきました。そのため、90歳を過ぎて歩けることがどれほど素晴らしいか、実感を持ってわかるのですが、当人たちはなかなか自覚できないようです。
逆に言えば、これまで健康状態に大きな問題がなかったからこそ、現状に感謝をすることが難しいのかもしれません。
そう考えると、心身ともに健康で長生きするということは、なんとも難しいものに思えてきます。
朝起きて、なんとも元気が出ない。そうして無理やり起き上がるも、ひざが痛くてたまらない。それでもなんとか起き上がってはみたが、別にやることもないので、しばらくぼんやりと庭を眺めている。
朝からいきいきと「今日何を楽しもうか」なんて考えられる高齢者はまずいないでしょう。多くの場合「今日は何をすればいいのだろう」、そこから毎日が始まるのです。
このように、生きる目的がはっきりしない高齢者の生活を見て、あなたはどう思うでしょうか。
おそらく、否定的に捉えてしまうでしょう。
しかし、「何をすればいいのかわからない」と考えられる余裕があるだけ、じつは幸福だとも言えます。
いくつかの病気を抱えた高齢者は、痛みで動けず、一人で外出することもできません。家にいるしかないということになります。
認知症が進行した患者さんなら、朝、デイサービスの迎えの車が来ます。それに乗って通所施設へ行き、あとはみんなと一緒に体を動かしたり、頭の体操をしたりしなければいけないのです。
つまり、「何をしていいのかわからない」という人は、選択の自由を持っているということです。
昼食を食べたくなければ、食べなくてもいい。いつ食べてもいいし、何を食べるか自分で決めていい。こうした選択の自由は、じつは非常に大切なものです。
介護を受けている人は、時間が来れば食事が出てくるので、食べないという選択肢がほとんどありません。
自分で毎日何もかも決めていかねばならないというのは、面倒に感じますが、最高の自由であり、非常に幸福なことなのです。
「充実した老後」というのはよく耳にしますが、それらはすべて幻想です。メディアが作りだしたイメージです。
老後を迎え、現役時代にはできなかったたくさんの趣味に手を出して「充実した人生を送ってますよ」という人を、私はほとんど見たことがありません。
もちろん、趣味を楽しんでいる人もいるでしょう。しかしそれによって、本当に充実して満足した老後を過ごしているかといえばそうではないでしょう。無理しているだけかもしれません。
その一方で、「無趣味なので何をしていいのかわからない」という言い方をする人もいます。
ですが、むしろそのほうが自然でしょう。実際に、無趣味で何もしていない人のほうが多いのです。
あるいは、無趣味というほどではないにしても、趣味に入れ込むようなことはなく、ただ普通に日常を過ごしているだけという人がほとんどではないでしょうか。
つまり、趣味を楽しむわけでもなく、淡々と日常を生きているというのが、多くの人にとっての老後なのです。
趣味も持たない高齢者がたった一人で住んでいると、「それは孤独で寂しいことだ」と決めつけられてしまいがちです。
しかし、そんなこともないのです。何もしない一人の時間を自由に謳歌できる、逆にそれこそが充実した老後の人生の送り方なのです。
趣味などなくても、日々、普通に過ぎていきます。
周囲からやたらに「何か特別な趣味をしなさい」と言われても気にしないことです。