封印された31年前の日本の月着陸、世界3番目…社会発展に絶大な貢献

「探査機をいったん地球の重力圏の限界近くまで飛ばし、太陽重力の影響を利用して高度を上げ、さらにスイングバイを行って軌道を月に導けば、わずかな燃料で『ひてん』を月周回軌道に投入できる」

 いわば、省エネ航法の勧めであり、これが宇宙研の技術者の背中を押し、もともとの計画にはなかった「ひてん」の月の軌道への投入が試みられることになった。8カ月くらいかけて「ひてん」は月に接近・減速して、1992 年2 月15 日に月の軌道に乗った。月を回りながら1年以上さまざまな実験を行い、最後に与えられた大仕事が、将来の月軟着陸を見据えた「制御された月面への着地(衝突)」である。残されたわずか1kg の燃料を使って軌道修正を行い、月のフレネリウス・クレーター付近が着地点となった。着地時刻は1993 年4 月11日3時3分24.5秒であり、計画との誤差はわずか0.4秒であった。

 ところが、である。この月面到着は、宇宙研の当時の監督官庁である文部省(現文部科学省)を大いに驚愕させてしまった。計画してもいない月面到着を許可なく勝手に実施したということで、宇宙研の幹部は文部省へ出向き釈明する羽目になった。

 こんな背景から、宇宙研も「世界で3番目に月に探査機を到着させた」ことを大々的に発表する記者会見は行わず、淡々と「月に衝突して任務を終えた」と発表するのみであった。当時の新聞では「ひてんが月面に落下」という数行の記事で報道されるのみであった。

 しかし、「ひてん」への世間での評価はともあれ、30年前に「ひてん」によって獲得されたスイングバイ技術や軌道制御技術が礎となって、今回の月探査機スリムのピンポイント着陸の成功があったと考えれば良いのであろう。

月着陸/宇宙開発が、夢やロマンは別として、世の中で何の役に立つのか?

 今回の「スリム」の月着陸に要した総開発費は149億円。その出所はすべて税金である。宇宙開発全体(偵察衛星も含む)の予算規模は6000億円。夢やロマンも結構だが、福祉など別の用途に使ったほうが社会の役に立つのではないかという意見は出て当然だろう。

 人工衛星、特に宇宙探査機は、打ち上げ時の重量制限による軽量化と、長期間宇宙空間の真空と高温、低温という厳しい環境にさらされるため高い耐久性と信頼性を求められる。宇宙探査機を設計・製造する際に培われた高度な先端技術とノウハウは、水平展開され他の人工衛星や、波及して他の産業にも活かされる。

 例えば、「スリム」を設計・製造した三菱電機は気象衛星「ひまわり」を製造しており、この「ひまわり」のおかげで気象予測の精度は格段に進歩した。気象庁からの気象データを基に気象情報会社は解析し洗練化した上で、各企業に配信している。このデータに基づき、食品スーパーは来店数予測をして入荷数を調整し廃棄率を下げられる。建設企業は天候を予測しながら効率的に建設工事計画を立てられる。アパレル企業は季節の変わり目に合わせて広告を打っている。

 さらに、宇宙開発で培われた技術は政府から民間企業に伝承され、米国ではスペースX社を中心に、すでに宇宙自体が巨大な民間ビジネスの場となっている。日本でも民間初の月着陸を狙うアイスペース社をはじめ多くのスタートアップ宇宙企業が生まれ、政府もこれらを支援し始めている。

 消費者の目線に立てば、GPSのおかげで一般消費者もカーナビでの運転を享受でき、衛星放送によって大谷翔平のホームランを日本にいながらリアルタイムで見ることができる。このように、もはや当たり前すぎて意識もされないところで、宇宙開発の恩恵は各企業、消費者に浸透している。

 月探査機「スリム」が世界に先駆けて行った「ピンポイント着陸」によって培われた高度な先端技術が、今後さらなる社会への貢献につながることを期待したい。

(文=橋本安男/航空宇宙評論家、桜美林大学航空・マネジメント学群客員教授)