イエレン氏やパウエル氏が意識する高圧経済論の理論的支柱には、経済成長率と失業率の関係を示した「オークンの法則」で有名な経済学者であるオークン氏が1973年に執筆した論文がある。そしてこの論文では、高圧経済によって労働市場で弱い立場にある若年層や女性雇用に恩恵が及び、経済全体の生産性も高まることが示されている。理屈としては、経済が過熱すれば企業は賃金上昇を抑制しながら人手不足の対応を余儀なくされ、結果として労働市場で立場の弱い若年層や女性の雇用機会が増え、スキルも磨かれる。そして、こうした高圧経済で労働市場を過熱状態に置けば、労働市場に参加していない人が市場に戻ることで労働参加率が上がり、より生産性の高い仕事への転職も増えることで経済成長が促される。
一方、サプライサイドへの影響に対する仮説に基づけば、リーマンショックやコロナショックなどの深刻な不況は失業者の人的資本の毀損等を通じて潜在成長率も低下させるとしており、これはサマーズ元財務長官らが唱えている「長期停滞論」とも親和性がある。となれば、高圧経済は潜在成長率も高めることになろう。
伝統的な成長会計に基づけば、一国の潜在成長率は潜在的な労働投入量と資本投入量と生産性の三要素によって規定され、短期的な需要の変化に左右されないとされる。しかし、バブル崩壊や金融危機などにより需要の低迷があまりにも長引くと、企業の設備投資の慎重化などにより供給力に悪影響を及ぼす。逆に強めの需要刺激が続けば、雇用の増加や賃金の改善に伴う企業収益の改善を通じて設備投資の回復を促す。そして、研究開発や新規創業等を通じて生産性も上向くことで、結果として労働+資本+生産性の潜在成長率も上向かせることになる。実際、日本の経験に基づけば、潜在成長率は実際の経済成長率に遅れて連動していることがわかる。こうした見解に基づけば、高圧経済で日本の潜在成長率も高まる可能性がある。
(1)潜在成長率は現実の経済成長率に1年半遅れて動く
以上のように、日本経済において高圧経済の時期が少なかった背景には、バブル崩壊に伴う需要サイドの急減が供給サイドにダメージを与え、長期の成長力が低下した可能性がある。そこで以下では、日本経済の需要不足が低成長を恒久化させた高圧経済で言うところの「履歴効果」について検証してみよう。
先に見た通り、日本の潜在成長率を見ると、経済成長率に遅れて変動しているように見える。そこで、潜在成長率と経済成長率の時差相関係数を計測すると、潜在成長率が経済成長率に1年半遅れて最も高い正の相関を示していることがわかる。構造改革派によれば、潜在成長率の低下は供給側の構造問題により起こってきたと考えられてきた。これが、金融・財政政策を中心とした需要刺激策よりも、生産性向上などの供給力向上策が重要と指摘される根拠となっている。しかし、これまでの実質成長率と潜在成長率の因果関係を見た限りでは、潜在成長率が現実の成長率を後追いして変動していることからすれば、潜在成長率の低迷は供給側の構造的な要因というよりも、総需要の変動の影響を大きく受けてきたものと推測される。
(2)潜在成長率を構成する殆どの要因が総需要の影響を受ける
そこで続いては、日銀の潜在成長率を資本ストック、労働時間、就業者数、TFPの4要素に分解し、各要素と現実の成長率の動向を比較してみた。
すると、TFPがほぼ同時、資本ストックと就業者数が現実の成長率にやや遅れて変動していることがわかる。一般的には、労働投入量低下の要因として、時短や少子高齢化、雇用のミスマッチ等といった供給側の問題が大きいと捉えられてきた。しかし資本ストックについては、その源泉が総需要の動向に大きく左右される設備投資であることからすれば、供給側の構造問題のみで潜在成長率の変動を説明するのも無理がある。したがって、定性的に判断しても、特にバブル崩壊以降の潜在成長率の低下は供給側の構造問題というよりも、総需要の変動の影響が大きいと考えるのが自然である。そして実際に、総需要が各要素に及ぼす影響は以下のようなものが考えられる。