信越化学はそうしたEV及び部品メーカーの要望を満たす製造技術を持つ。具体的に、信越化学が手がけるパッドや硬化型のシリコーンはEVバッテリーの放熱に用いられる。また、柔らかいグリース状のシリコーンは振動のかかる車載部品の放熱に使われる。世界各国でEV生産に参入する企業は増えている。かなりの量の多様な仕様に基づいたシリコーンの注文が信越化学に入っているだろう。
急増する放熱材の需要に対応するために、信越化学はシリコーン生産能力を引き上げる。そのポイントは、主に国内で設備投資が実行されることだ。脱炭素の加速によって世界経済の運営体制は大きく変わり始めている。その一つがEVなどの地産地消だ。欧州では炭素の国境調整や、製品のライフサイクルアセスメントの導入が目指されている。自動車などの生産は最終消費地に近い場所で行われるケースが増えるだろう。
そうした展開が予想されるなかにあっても、信越化学は国内の生産能力を強化する。同社の製造技術は海外で再現することが難しいと考えられる。塩化ビニルやシリコンウエハなどにも共通するが、機械と異なり素材は分解してその仕組みをコピーすることが難しい。国内でシリコーンの生産能力を強化することによって、信越化学はさらに微細、かつ複数の用途に柔軟に対応できる素材の創出能力を高めようとしていると考えられる。また、世界的な物価上昇圧力が高まっているなかで同社が設備投資を積み増すことも見逃せない。それは、EV関連素材の需要は今後も増加し、国内で設備投資を実行することによってより有利にシェアを獲得することが可能という経営陣の自信の表れといっても過言ではないだろう。
日本にとって、信越化学の製造技術は経済の安定と成長を実現するために一段と重要性が高まる。同じことは他の国内素材メーカーにも当てはまる。1980年代半ば以降に激化した日米半導体摩擦、その後の国際分業の加速などによって、日本の電機産業の競争力が失われた。脱炭素を背景とするEVシフトは、すり合わせ技術を磨いて内燃機関の製造に強みを発揮してきた自動車産業に逆風だ。自動車産業全体でEVシフトへの対応は遅れている。日本のデジタル化の遅れも深刻だ。どうしても国内経済の停滞懸念は高まりやすい。
そうしたなかにあっても、信越化学はひたむきに新しい素材を生み出す力を磨き、成長を実現している。海外の素材メーカーもシリコーンをはじめEV関連素材の供給能力を引き上げているが、現時点で信越化学の製造技術に対する世界からの信頼に揺るぎはないようだ。
同社が日本経済の実力向上に与えるインパクトは高まっている。特に、素材の創出力は、新しい発想の実現に無視できない影響を与える。EV以外にもメタバースに必要な次世代の高速通信や仮想現実(VR)、拡張現実(AR)を実現する機器の開発や、二酸化炭素や大気汚染物質の吸着素材など、世界経済の最先端分野で新しい素材の需要が急拡大するだろう。信越化学がそうした急速な事業環境の変化にしっかりと対応する事業運営体制を確立しようとしていることは、世界経済における日本の存在感に大きく影響するだろう。世界から必要とされるモノやサービスを供給することが、経済の成長に欠かせない。信越化学の素材創出力はそれを支える重要なピースだ。
信越化学の営業利益率は、世界の大手素材メーカーの平均的な水準を上回る。コロナ禍が発生した後も、同社の利益率は上昇傾向を保った。今後はEV関連素材の需要拡大によってさらなる収益の獲得が目指されるだろう。得られた資金を同社経営陣がより高付加価値の素材創出力の強化や新しい生産ラインの設置に再配分し、長期にわたって成長を実現する可能性は高いと考えられる。
(文=真壁昭夫/法政大学大学院教授)
●真壁昭夫/法政大学大学院教授
一橋大学商学部卒業、第一勧業銀行(現みずほ銀行)入行。ロンドン大学大学院(修士)。ロンドン証券現地法人勤務、市場営業部、みずほ総合研究所等を経て、信州大学経法学部を歴任、現職に至る。商工会議所政策委員会学識委員、FP協会評議員。
著書・論文
『仮想通貨で銀行が消える日』(祥伝社、2017年4月)
『逆オイルショック』(祥伝社、2016年4月)
『VW不正と中国・ドイツ 経済同盟』、『金融マーケットの法則』(朝日新書、2015年8月)
『AIIBの正体』(祥伝社、2015年7月)
『行動経済学入門』(ダイヤモンド社、2010年4月)他。