小野家は「浮き貸し」として鉱山経営等の投資に充てていたため、現金化することが難しく、折悪しく米相場で大きな穴を空けていたことから破綻してしまう。同様に島田家も破綻した。
三井家のみ破綻を免れた。抵当増額令の噂が出た時、みんなは「そんなことはできっこない」とタカを括っていたのだが、井上馨が三野村利左衛門に「大隈は本気らしいぜ」と耳打ちしたらしい。利左衛門は金策に奔走。オリエンタル・バンク(英国東洋銀行)から100万ドルにおよぶ融資を受けて、この危機を乗り切ったのだ。
第一国立銀行の二大勢力のうち、小野組が破綻したため、三井家は同行を完全支配できるとほくそ笑んだのだが、渋沢栄一が頭取に就任し、経営の実権を握ってしまう。
そこで、三井家は新たに銀行創設の請願を東京府に提出。明治9(1876)年7月、私盟会社三井銀行(のち、帝国銀行→三井銀行→太陽神戸三井銀行→さくら銀行を経て、現・三井住友銀行)が設立された。日本初の私立銀行である。
江戸時代の三井家の家業は呉服店と両替店だった。呉服店を切り離してしまったので、三井家の家業は銀行しか残っていない。仮に銀行が破産した場合には一族が路頭に迷ってしまう。銀行のほかに事業を興しておく必要があった。そこで、利左衛門は三井物産の設立を思いつく。
渋沢栄一と共に大蔵省を退官した井上と益田は、大阪の商人・岡田平蔵と鉱山経営・貿易業を営む岡田組を設立するが、岡田が急死してしまったので、「先収(せんしゅう)会社」と名を変えた。ところが、明治8(1875)年12月に井上が新政府首脳と和解し、元老院議官として官界に復帰。先収会社は閉鎖されることになった。
ここで、三野村利左衛門が先収会社を三井で継承し、経営を益田に委ねたいと提案。当初、消極的だった益田も利左衛門の説得に折れ、翌明治9(1876)年5月に井上邸で、井上馨・三野村利左衛門・益田孝の3者会談が開かれ、新会社の発足が決定。7月に先収会社をもとに三井物産会社を設立した。
ここでも、三井家はまた一族から2名を分家させ、三井物産をかれらが共同で興した会社として、形式上、三井家と無関係であるかのごとく装った。万一、三井銀行と三井物産のいずれかが破綻しても、その負債がもう一方の企業に及ばないようにするための知恵であった。
このように、三井家の最大の関心は、先祖から受け継いだ資産をいかにして保全し、継承していくかにあった。丁稚時代から三井に奉公していた者たちとは違い、三野村利左衛門はそうした三井家の在り方に疑問を持っていたらしい。井上馨の後押しもあって、三井家の家政改革を進めていたのだが、明治10(1877)年2月にガンによって死去した。享年57と伝えられる。
(文=菊地浩之)
●菊地浩之(きくち・ひろゆき)
1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)など多数。