ならばだれもいない線路沿いを探すか、高い山にでも登って見下ろすように撮影すれば目的は達せられるのだろうが、案外こうした行動に出る撮り鉄は少ない。実は撮り鉄は撮影という行為を楽しむと同時に、撮影した写真をコレクションの対象としている。この世界では皆がよく知っている場所、つまり大勢が集まる場所で撮影された写真のほうが価値が高く、それこそ「いいね」ももらいやすい。自分だけ突拍子もない場所で撮影して「写真の価値」を下げたくはないのだ。
対策はなかなか難しい。あえていえば、静止画像の撮影はやめて動画撮影一本に切り換えるべきだと筆者は考える。最初から最後まで車両がきれいに収められている動画などあり得ない。その当たり前の事実に気づくだけで、視野が広がるのではないだろうか。
静止画像での撮影をやめたくないという考えも理解できる。となるとカメラの進歩を待つほかない。たとえば、群衆越しに撮影しても車両だけがきれいに写り込むよう、カメラ側から電波を発信してあたかも群衆の最前列から撮影したような画像データを得るといった機能だ。
話をオリンピックに戻し、1964年の東京オリンピックで姿を消した鉄道に詰めかけた撮り鉄の様子を紹介しよう。時は東海道新幹線の開業前日となる9月30日、場所は東京駅だ。
この日限りで東海道本線を走っていた昼行の特急列車は姿を消した。なかには翌日から東海道新幹線の列車名に転身した特急「こだま」も含まれる。東海道本線の最終の「こだま」は13時30分に東京駅を後にした。著名な鉄道愛好家の撮影した写真を見ると、明らかにホームから線路に降りて撮影されている。断っておくが、東京駅では1914(大正3)年12月20日の開業からいまに至るまで、一般の旅客や公衆が自由に線路に立ち入ることができたときなどない。ならば、特別に許可を得て撮影したマスメディアの関係者ではないかと思う人もいるだろうが、それも異なる。
この著名な鉄道愛好家は国鉄の職員、それもかなり高い役職に就いていた人で、それゆえ自由に撮影できたのだ。部内で記録を残すという大義名分も立ったのであろう。とはいえ、今日では線路に降りての撮影はたとえJRの社員であっても認められない。いやJRの社員だからこそ許されないというのが今日の考え方である。
国鉄の職員としても、鉄道愛好家としても著名な人が線路に降りて撮影しているのだからと、ほかの撮り鉄も同様な行動を選択して撮影した。今日残されている写真から明らかだ。それでも撮り鉄の行動がニュースになるほど報じられなかった理由は、当時はカメラが高価で撮り鉄の絶対数が少なかったからにすぎない。
「混乱がなければ『結果よし』で済むのではないか」との意見もあろう。だが、線路に降りて撮られた写真は、当たり前だが人垣越しの写真ではないので、車両だけが美しく写っている。後年になって、このような写真がお手本と見なされたことも今日の撮り鉄に悪い影響を及ぼしているのではないだろうか。
筆者は特別な日に鉄道の写真を撮影して大勢の人の姿が写っていることなど当たり前と考えるが、撮り鉄にとってはあってはならない一大事だ。先に述べたように根本的な解決策はカメラの進歩を待つとして、それまでの間は価値観を変えるほかない。いまどのくらい影響力があるのか定かではないが、手本となる写真を載せる鉄道趣味雑誌もあえて人垣のなかから撮影された写真を載せるようにしてほしい。そうすればSNSで「いいね」をもらえる写真の有り様も変わる。逆にいうと、価値観の変化を創造できなければ、この手のトラブルは今後も続くであろう。
(文=梅原淳/鉄道ジャーナリスト)
●梅原淳/鉄道ジャーナリスト
1965(昭和40)年生まれ。大学卒業後、三井銀行(現在の三井住友銀行)に入行し、交友社月刊「鉄道ファン」編集部などを経て2000年に鉄道ジャーナリストとして活動を開始する。『新幹線を運行する技術』(SBクリエイティブ)、『JRは生き残れるのか』(洋泉社)、『電車たちの「第二の人生」』(交通新聞社)をはじめ著書多数。また、雑誌やWEB媒体への寄稿のほか、講義・講演やテレビ・ラジオ・新聞等での解説、コメントも行っており、NHKラジオ第1の「子ども科学電話相談」では鉄道部門の回答者も務める。