一方で、選手のプロ化も進んだ。その結果、スポーツがどうなってしまったか。早い話が、クーベルタンのオリンピズムとは真逆の「オリンピックは参加することではなく、勝つことに意義がある」とする、スポーツ界における「勝利至上主義」の蔓延である。
これにより、ロス五輪以降は禁止薬物使用のドーピング問題が急増した。1988年のソウル五輪の陸上100mでは、世界記録で金メダルを獲得したベン・ジョンソン(カナダ)の尿からステロイド系の陽性反応が出た(世界記録は取り消され、金メダルも剥奪)。1998年のツール・ド・フランスでも大量のドーピングが発覚。事態を重く見たIOCが、世界反ドーピング機関(WADA)を発足させる契機となっている。
さらに、2016年にはロシアによる国家ぐるみのドーピング隠蔽工作も発覚。WADAがリオデジャネイロ大会からのロシアの除外を勧告し、スポーツ仲裁裁判所(CAS)もこの勧告を支持した。
五輪の商業主義がもたらした弊害は、こうしたドーピング問題だけではない。
ソウル五輪のボクシング・ライトミドル級決勝では、不可解な判定で韓国人選手が金メダルを獲得したが、のちに韓国の審判が買収されていたことが判明した。バンクーバー冬季五輪(2010年)でも、スポンサーがらみの審判買収嫌疑が浮上している。
かと思えば、2008年の北京大会のテコンドー男子80キロ級の試合では、試合運営の不手際にいらだったキューバ選手が審判を蹴るという暴挙に出た。同大会のレスリング男子でも、判定を不服としたスウェーデン選手が銅メダルを放置したまま会場を後にした(のちにメダルは剥奪)。日本のスポーツ界に目を向けても、パワハラ疑惑や日大アメフト部の悪質タックルなど、反オリンピズムに根ざした問題が次々と表面化している。
こうした不祥事の原因のすべてが、スポーツ界に蔓延する商業主義や、そこから派生した勝利至上主義にあると言うつもりはない。確かに、ロス五輪以前にも興奮剤を使用した競輪選手が死亡したり、マラソン銅メダリストの円谷幸吉が自死を遂げたりと、悲しい事件や不祥事が五輪史に刻み込まれてきたのは事実である。
だが、それらが急増したのは、果たしていつからだったのか。37年前のロス五輪の開催が大きな分岐点になったと感じているのは、おそらく私だけではないだろう。
クーベルタンが教育の一環として目をつけた近代スポーツは、イギリスが発祥の地だと言われている。その主な担い手は同国の高校生や大学生たちで、ルールや規則を整備することによって、「気散じ」や「娯楽」に仲間が集うことへの有用性や意義を付加させた。それが、近代オリンピックの礎になっている。
感染の拡大が留まることを知らない新型コロナの猛威。これを機に、今夏の東京五輪・パラリンピックは中止し、スポーツのあり方をもう一度見直すべきではないかと、私は思っている。
(文=織田淳太郎/ノンフィクション作家)