関東の私鉄で放送されていた携帯電話使用禁止の車内アナウンスは、その後、JR、関西の私鉄・JRへと広がり、今では全国の輸送機関で同じ表現で行われるようになった。
車内で携帯電話の使用をめぐるトラブルは絶えない。単なる口論ならまだしも、年配の男性が若い女性に電話の使用をやめるように注意したところ、逆ギレされ痴漢と言われ警察に逮捕されるという事件まで起きている。
このような事件で裁判となっても、鉄道会社は「あれはお客様への要請であり法的なルールではありません」と責任を回避するので、結局当事者たちが馬鹿を見るだけになるのだ。さすがにマスクの着用をめぐっては大きな事件にまで発展することはないようだが、この携帯電話の使用もまったく同類の問題と考えられる。
「車内では静かにしてほしいので、携帯電話での会話はやめたほうがいい」という意見もあるだろう。しかし、海外ではあのような車内のアナウンスを行うところはなく、みな自由に会話をしていて、私に言わせると日本だけが異常である。シンガポールの友人にこの日本の実情を話すと、「車内で使えないのなら、なんのために携帯電話があるの?」と言い返される。
「外国は外国、日本には車内では静かにしようとする文化があってもいいのでは」という意見も出るだろう。それならば国会等できちんと議論して法律をつくればよい。多くの国民がそれを望み多数決で車内での携帯電話の会話を禁止する法案を可決すれば済み、トラブルもなくなるだろう。
日常的に車内で口論や事件の原因となる携帯電話の使用について、約700人の国会議員やマスコミはこれまでに何をしてきたのか。私の知る限り、誰も質問しないし、マスコミでも問題視されてこなかった。弁護士出身の議員なら憲法第31条を知らぬわけがない。憲法第31条は簡単にいえば、何人も法律によらなければいかなる処罰も受けないということを規定しているのである。
私はこの問題を早くから取り上げ、自著ではもちろん、2004年には全国紙の「私の視点」というコラムで詳しく論評した。当時その新聞社の編集者は「あなたのような意見は珍しいので、これを機会に議論になれば意義があるので、ぜひ掲載させてほしい」と。そしてこの記事を見た東北のある大学から翌年の入試問題に使わせてほしいと依頼が来たのである。実際に入試問題として新聞に掲載された私の「小論文」をそのまま使い、あなたの意見を述べよという形で出題されたものである。推察するに、当該大学の入試問題担当者は、私の「小論文」が言論の自由とそれを抑制できる社会規範との関係を重要なテーマとして考えたのであろう。
しかし、残念ながら、それから16年も経った現在でもこの車内での携帯電話の使用という日常生活で誰もが直面するテーマについて取り上げる国会議員やジャーナリスト、マスコミが見当たらない。最初に紹介したピーチ機でのマスク着用の問題が定期便の運航にまで影響を与えた件と根は同じだ。つまり、人類が長い歴史のなかで血を流して勝ち取ってきた「自由権」に対し、日本人はあまりにも鈍感で進歩がみられないということに尽きる。車内であのアナウンスを耳にしたとき、いったいあれは誰がいつつくったのかという素朴な関心すらないこの国民に未来はあるのだろうか。
(文=杉江弘/航空評論家、元日本航空機長)