「人間の身体性には変えられない部分と変えられる部分がある」
このように指摘するのは山極壽一京都大学総長である。技術の進歩とともに、人間はこれまでのように新しい環境に自らを順応させていくだろうが、テクノロジーの進化で社会が激変するなか、豊かな社会を創出するためには、人間の身体性をけっして手放すようなことがあってはならない。
このような観点から、アフターコロナの社会における地域交流の場として「混生社会」を提唱しているのが出口康夫京都大学教授である。混生とは「異質な者同士が三密的環境の下で共に暮らすこと」である。新自由主義がもたらした過度の競争社会へのアンチテーゼとして、「人が共に助け合う生き方」を意味する「共生」という言葉がしばしば語られているが、出口氏は、同調圧力の下で異質者が排除されないよう、あえて「混生」という用語を使っている。
「混生」の「混む」の字には「身体的近接性」の意味も込められている。人が「三密」を求めるのは人間の弱さのあらわれでもある。自分の弱さに1人で直面するのは辛い作業であるため、人はしばしば他者と身体を近づけ互いの体温で温めあうことで、辛い体験を豊かな共同体験に「昇華」させようとする。
高齢になればなるほど、人は1人では自分の弱さを直視できずに、自分の健康を守ることすらできなくなる。自らの弱さを集団的に受容するための身体を用いた相互ケア・相互セラピーの営みの重要性が高まっているが、このような混生社会を支えるためには、社会の遠隔化・効率化をいっそう推進させることにより、人々が自由な活動時間を確保できるようにすることが不可欠である。
このようなビジョンなくしては、日本社会のデジタル化は成功しないのではないだろうか。
(文=藤和彦/経済産業研究所上席研究員)
【参考資料】
『BEYOND SMART LIFE 好奇心が駆動する社会』(日立京大ラボ/日本経済新聞出版)