初代京都所司代で有名な板倉勝重。彼の子孫はみな「重○」を名乗っていたのだが、こともあろうに、9代将軍が家重と名乗ってきた。
「あちゃー」。板倉家は混乱した。そして、一族みんなが改名した。
・鳥羽藩 板倉重規(しげのり) → 板倉勝澄(かつずみ)
・泉藩 板倉重清(しげきよ) → 板倉勝清(かつきよ)
・福島藩 板倉重房(しげふさ) → 板倉勝里(かつさと)
・庭瀬藩 板倉重宇(しげのき) → 板倉昌信(しげのぶ)
最後の庭瀬藩のほう、「昌」で「しげ」と読むの? この際、そんなことは言っていられない。結局、庭瀬藩でも昌信の子が勝興と名乗り、板倉家はみな「重○」を名乗っていたのだが、家重の出現で、それ以降、みな「勝○」を名乗ることになった。そういえば、幕末の老中は板倉勝静(かつきよ)だったなぁ。
徳川家臣団には「重○」を名乗る家系が少なくなかったので、家重の出現は大迷惑だった。
かの田沼意次(おきつぐ)の父も、もとは田沼重意(しげもと)と名乗っていたのだが、のちに田沼意行(もとゆき)と改名している。家重にはばかって改名したのだろう。
ではなぜ、意行(もとゆき)の子が、意次(もとつぐ)ではなく、意次(おきつぐ)なのか。10代将軍・徳川家治には、徳川家基(いえもと)という世子がいた。おそらく田沼のほうも当初は意次(もとつぐ)と名乗っていたのだろうが、家治の世子が家基(いえもと)と名乗ったので、意次(おきつぐ)と読み方を変えたのだろう。
主君に名前から一字を与えられることは名誉なので、名誉の剥奪として偏諱を取り上げた事例がある。
幕末に長州藩が幕府と敵対し、長州征伐が行われると、長州藩主・毛利慶親(よしちか)、その世子・毛利定広(さだひろ)は偏諱を剥奪され、毛利敬親(たかちか)、毛利元徳(もとのり)と改名した。「慶」の字は12代将軍・徳川家慶から、「定」の字は13代将軍・徳川家定から与えられたものだからだ。
明治維新が成功すると、このことが吉例になって、徳川将軍家から偏諱を与えられていた西国雄藩の大名が偏諱を返上する事例が相次いだ。
・福岡藩 黒田斉溥・慶賛(よしすけ)父子 → 黒田長溥(ながひろ)・長知
・佐賀藩 鍋島斉正・茂実(もちざね)父子 → 鍋島直正・直大(なおひろ)
・熊本藩 細川慶順(よしゆき) → 細川韶邦(よしくに)
・薩摩藩 島津茂久 → 島津忠義
・広島藩 浅野茂長・茂勲(もちこと)父子 → 浅野長訓(ながみち)・長勲
徳川家康は、元信、元康と名乗った後に家康と改名しているが、これを「毛利敬親の論理」と同様に捉え、今川家と訣別したためと解釈する向きが多い。
しかし、徳川家の重臣・鳥居元忠は明らかに今川義元から偏諱をもらったと思われるが、家康は改名を指示していない。今川氏真から偏諱をもらったと思われる松平真乗(さねのり)も同様である。秀吉から偏諱をもらった徳川秀忠も、豊臣家が滅亡した後も改名していない。
戦国時代にはまだ、名前にそこまで配慮していなかったのではなかろうか。
家康が改名したのは、「元」の字を捨てたのではなく、「家」の字を使いたかったからではないか。
家康の母の再婚相手・久松俊勝は、当時、久松長家(ながいえ)と名乗っていた。この御仁は部将としてはあまり有能な人物ではなかったらしい。桶狭間の合戦後、妻とともに家康に引き取られたが、パッとしなかった。家康は母親思いだから、長家から一字をもらって親子の絆を宣言し、家中に対してあまり軽んじるなよと釘を刺したのだろう。ただ、家康があまりにも出世してしまったので、長家の方が恐縮してしまい、俊勝と改名したのだろう。
現代日本ではほとんど見られない改名。武家社会には独特のルールと多くのエピソードがあったのだ。
(文=菊地浩之)
●菊地浩之(きくち・ひろゆき)
1963年、北海道札幌市に生まれる。小学6年生の時に「系図マニア」となり、勉強そっちのけで系図に没頭。1982年に國學院大學経済学部に進学、歴史系サークルに入り浸る。1986年に同大同学部を卒業、ソフトウェア会社に入社。2005年、『企業集団の形成と解体』で國學院大學から経済学博士号を授与される。著者に、『日本の15大財閥 現代企業のルーツをひもとく』(平凡社新書、2009年)、『三井・三菱・住友・芙蓉・三和・一勧 日本の六大企業集団』(角川選書、2017年)、『織田家臣団の系図』(角川新書、2019年)など多数。