激戦となり、その夜、モンゴル軍は博多湾上の兵船にいったん退いた。通説によれば、そこへ嵐が襲い、モンゴル軍は一夜で退却したとされる。ところが前出の服部氏によれば、そうした記述は歴史書のどこにも書かれていない。
たしかに奇妙だ。歳月をかけ、莫大な投資もして、周到な準備もしたうえで、はるばるやって来た。しかも負け戦ではなく、接戦で、いくぶん勝ち戦に近かった。9000人近くが上陸したとみられるモンゴル軍は、海岸から500メートル離れた山に陣取っていた。そこから小さな上陸用艇で母船に引き揚げ、その夜のうちに博多湾から出帆するのは無理がある。
実際には、モンゴル軍は20日の激戦後も、29日頃まで日本に滞在し、作戦を継続していた。撤退を決めたのは、24日に大宰府まで攻め込んだものの、日本軍の善戦で退けられてからだった。
嵐は吹いたが、いつ吹いたのかはわからない。なお、冬に近い季節からみてこの嵐は台風ではなく、寒冷前線の通過に伴うものとみられる。
一夜で退却したという虚構のもとになったとみられるのは、『八幡愚童訓』という本である。筥崎(はこざき)宮が蹂躙され、怒った八幡神が、夜中に白衣で蒙古に矢を射かけてきた。パニックになった蒙古兵は、街を燃やす火が海に映るのを見て、海が燃えだしたと勘違いし、慌てふためいて逃げ出した。社殿を焼かれて怒った神が追い返すのだから、その夜のうちに追い返さなければ格好がつかない。
この荒唐無稽な話が、別の日に嵐が吹いたことと合体し、嵐のために一夜で退却した、という虚像ができあがったと服部氏は推測する。
フビライは1281年、2回目の日本遠征を実行する。弘安の役である。このときは夏で、たしかに台風が来たし、実際に鷹島沖に船は沈んでいる。ただし通説とは異なり、鷹島には全軍が集結していたわけではなかった。台風が決着をつけたわけではなく、その後も合戦は継続された。モンゴル軍が退却を決めたのは、台風の後の2つの海戦に敗れてからである。
2回目の遠征では、中国の江南から10万という大軍が派遣されており、台風に直撃されたのはこの江南軍だった。ところが前出の杉山氏によれば、江南軍とは失業した旧南宋の職業軍人で、フビライ政権が扱いに困り、志願者を募って海外派兵に振り向けた「移民船団」だった。ほとんどは武装しておらず、携えていたのは日本入植のための農器具であったらしい。台風で溺死したのはさぞ無念だったろう。
この台風は、日本の船も沈めている。九州・本州を横断していったから、田畑にも人家・山林・港にも甚大な被害を与えた。怨嗟の的であって、服部氏によれば、それを当時の日本人が神風と呼ぶことはなかった。民の被害を伝え聞いた僧の日蓮は「日本国の凶事」と嘆いている。
その後、宗教家や思想家によって、非科学的な神風思想と日本不敗神話が形成されていく。それは第二次世界大戦で敗戦が決定的になってもなお戦争をやめることができず、犠牲者・損失が増え続ける大きな要因になった。
ゆがめられた歴史は、権力によって利用される。それはしばしば、外敵よりも甚大な被害を国民にもたらす。神風の虚像ほど、それを如実に示すものはない。
(文=木村貴/経済ジャーナリスト)
<参考文献>
杉山正明『大モンゴルの世界 陸と海の巨大帝国』角川ソフィア文庫
服部英雄『蒙古襲来と神風 – 中世の対外戦争の真実』中公新書
宮崎正勝『「海国」日本の歴史: 世界の海から見る日本』原書房
●木村貴(きむら・たかし)
1964年熊本県生まれ。新聞社勤務のかたわら、欧米の自由主義的な経済学や政治思想を独学。経済、政治、歴史などをテーマに個人で著作活動を行う。
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