「推しの子」ヒットが私たちの不満を象徴する訳

もう一つ重要な視点は「覗き見願望」だ。「転生もの」は、以前の人格や記憶を維持しているという点を踏まえると、自己の意識を保ったまま他人の人生を体験=覗き見する感覚に根ざしているといえる。『【推しの子】』では、芸能界の裏側をアイドルの隠し子として転生した赤ん坊の側から目撃する「異世界ツーリズム」の様相を呈している。

そもそも、自分の意識を持ちながら他者の中に入り込むというアイデアは、ファンタジー映画『マルコヴィッチの穴』(監督:スパイク・ジョーンズ、1999)が先駆けである。本作は、売れない人形遣いの主人公が職を得て、オフィスで文書整理の仕事をすることになったが、オフィスで発見した壁の穴に入ってみたら、15分だけ実在する俳優ジョン・ マルコヴィッチの頭の中に入れるようになる、という異色中の異色設定の怪作であった。

ジャンルが「転生もの」ではないこともあり、物語はマルコヴィッチの奪い合いへと展開していくのだが、もともと「覗き見」的な欲望に後押しされている点が非常に重要である。

『【推しの子】』はアイドルの赤ん坊の内部に入り込む形になっているが、有名人の内部からはどんな光景が見えるのかというスパイカメラ的な視線の共通性で際立っている(『マルコヴィッチの穴』では、主人公がマルコヴィッチと意中の女性の間にできた赤ん坊に閉じ込められるオチがある。これもスパイカメラ的である)。

これは、ある種の自己そのものを世の中から消し去ることであり、「今の自分」を透明人間に変える行為に近い。「人間の関係はふつう、見る主体であり同時に見られる客体なのだが、自分たちは見られずに見るだけの絶対主体なのだと。非存在の、いわば純粋視線」――半生を「のぞき」に捧げた男「為五郎」のドキュメント『盗視者 為五郎 のぞき人生』(桑迫昭夫/朝倉喬司、幻冬舎アウトロー文庫)にある言葉だ。

為五郎は、ある作家が「覗きは性行為」と思っていることについて真っ向から反論し、「性行為じゃないんだよ。覗きは自殺なんだから。自分の命を除くことなんだから」と「自分除き」であることを強調する(同上)。これを「転生もの」の構造に落とし込むと、スパイカメラのような存在として、「別の人生」「別の世界」に潜り込みつつも、移行先の他人の身体を盾に「見られずに見る」という享楽になるだろう。

推し活の本質は「推しの人生を生きる」こと

このような欲望は、リアリティ番組を支えている野次馬的な欲望にも通じるが、「転生もの」は当事者の内部に入り込みながら自己を透明化する。

筆者は、以前「推し活」ブームについて論評したことがある(「推し活ブーム」を鼻で笑う人に伝えたい社会変化)。「推し活」の本質は、「自分の人生」ではなく「推しの人生」を生きることにある。そこでは、自己が推しの一部となって消滅することこそが癒やしとなる。その究極の形態を作中で描いてみせたのが『【推しの子】』なのだろう。

実際に「別の人生」「別の世界」を切り拓くためには、多くの障壁や困難を乗り越えなければならない。けれども、「転生もの」のような物語であるならば、リスクを感じることなく、「別の人生」「別の世界」を無責任に漂うことができる。それだけ私たちは少しでも現状に対する不満や疲労を緩和し、自己を透明化するツールを必要としているのかもしれない。

それは、まるでインスタントなマルチバース(multiverse=「多元宇宙」のこと。私たちのいる宇宙以外に観測することのできない別の宇宙が存在しているという概念を示す科学用語)体験のようである。おそらく「転生もの」は、ありとあらゆる社会経済的な影響を責任転嫁され、抱えきれないほどの重みで疲弊した自己を、ほどよく中和するセラピーの一種になっている。

さまざまな点において選択の可能性が狭まり、人生がますます不自由に感じられる中で、決して来世に望みを託すではなく、現世の転生譚を消費することで「私」の負荷を軽減し、日常を肯定できるよう心理的な回復を図っているのである。

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