オーナーは私よりも1つ年下で、とてもさっぱりした印象の人物でした。お互いざっくばらんに自分自身のこれまでのことを伝え合い、私は「気が合った」と感じました。そこで私は、なぜこんなにも安いのかを聞き出したくなり、「300万円という価格は、オーナーさん的にはどういう根拠で出したんですか」と聞きました。
すると、「他の店舗もそれくらいの値段で譲渡したので」という答えが返ってきました。どうやらその金額は、自分がこれまでに出したお金と掛けた時間を勘案して、これくらいで譲りたいというざっくりしたもので、純資産+営業利益の何年分といった計算式は知らないようでした。
「なんかこの話、うますぎじゃないか」という疑念は拭えませんでしたが、一方で「こんないい案件はすぐに他の人に取られてしまうかも」という焦りもありました。
実は個人M&Aに興味を持ち、具体的に動き始めたころ、入札である法人に負けてしまったことがあります。その案件こそパーソナルジムだったのです。その時の後悔が蘇りました。
しかし、即決するにはやはり判断材料が足りない。少しでも時間が欲しいと思った私は、「超買いたいです」と意向を伝えたうえで、翌週に体験レッスンの予約を入れ、「オーナーさんが大切に育ててきた事業なので、ぜひ一度体験させてほしい。そのうえで、値段付けも含めて、もう少しこの事業の価値を見させてください」とお願いしました。
翌週、再び前橋まで行き、30分間のキックボクシングの体験レッスンを受けました。とてもいい運動になるし、トレーナーの人格もレッスンも素晴らしい。確かにこれは固定客がつくだろうと思いました。やはり体験してみてよかった。
帰り際、オーナーから「あなたにぜひ売りたい」と言われました。「他に買いたいと言ってくれた人とも会ってみたが、あなたはすぐに会いにきてくれて、体験レッスンも受けてくれた。まったく違う畑のサラリーマンが、ジムをどう経営するのか見てみたい」と言ってくれたのです。
本当は決断を先延ばしにするために体験レッスンを受けたのですが、それで私も決意が固まったし、オーナーとしても私を選ぶ決め手になった。やはり個人M&Aは、人と人との取引なのだなと痛感しました。
とはいえ、事前にやることはやりました。オーナーにある日のスケジュールを確認して、こっそり店の前に張り込んで、スケジュール通りにきちんとお客さんが来ているのかを確認したり。もちろん、お客さんはちゃんと来ましたね。すべて順調に進んでいました。しかし事業譲渡の契約日を2022年3月31日に決め、最終の契約書作りを始めた頃、最初にして最大のトラブルが起きました。
ジムにただ1人しかいないトレーナーが突然、「退職します」と言ってきたのです。このトレーナーはオーナーチェンジが起こることは知っていて、私も面談をして良好な関係を作っているつもりでした。私がオーナーになった後のことについても確認しており、「ゆくゆくは地元でジムを開きたいが、タイミングはいまではない。しばらくはここのトレーナーを続けます」と聞いていたのです。
しかし、人の心は変わるものです。退職理由を聞いてみたところ、「いまこそ自分の地元に帰って、パーソナルジムを開業するタイミングなのではないか」と思い直したと言います。
私はこの事業の最大の経営資源であり、最大のリスクである「人」を甘く見ていました。トレーナーありきのパーソナルトレーニングジムなのだから、トレーナーがいなくては成立しません。
オーナーに「スタッフが1人もいないのでは売り上げが立たない。これでは買えない」と伝えたところ、オーナーも謝罪するほかなく、2人で頭を抱えることになりました。契約はいったん、ペンディングになりました。