日本の社会全体に蔓延る「挫折不足」の大問題

世の中は理不尽なことばかりです。どれだけ正しいことをしていても、予期せぬ障害に出くわすことも多々あります。そんな「世の中にまかり通る不条理な不運」、「自分の努力ではどうにもできない外圧」があると知りつつ、未来に続く道を石ひとつ落ちていない綺麗な道として舗装する親が増えてきていると思います。

親が子どもに失敗をさせないよう、すべてに手を差し伸べてしまう。その結果、子どもたちも何か失敗をしたら怒られるんじゃないかと気にしてしまう。さらには、学校までもが学業成績そのものだけでなく「生活態度」を評価した内申点を重視するようになっており、生徒をより萎縮させている。まるで社会全体が挑戦しないことを奨励しているかのようです。

原晋監督(©マガジンハウス)

あえて生活態度に基準を作る必要があるのでしょうか。大人にとって都合のいい基準を作り、大人の仕事がしやすい環境を作っているに過ぎない気がします。

「可愛い子には旅をさせよ」と言いますが、ここにおいての「旅」とは、未知の領域をもあえて挑戦させる、といった意味です。しかし現代においての「旅」は、行き先もルートも移動手段もすべて備わった、いわばパックツアーとしか言えません。

私は、その風潮を変えなければならないと真剣に考えます。挑戦する人間が多く現れなければ、これからの日本社会は決して良くならないでしょう。

では、挫折とは何か。

挫折とは、自分で目標を立て、そこに向けて必死に努力したけれども「外的要因」 に打ちのめされて、それを達成できなかった経験だと私は考えます。頑張っても頑張っても、どうにもならないことに打ちのめされる。つまり挫折とは「相当の努力」と「自分ではコントロールしえない外圧」、そして「未達成」の3つの要素がそろった逆境の経験です。

それに対して「失敗」とは、現状に甘んじて行動を起こさない、あるいは何も考えず前と同じことをして、結果が出ないことを指します。 表面的にはどちらも「上手くいかなかった」ということですが、人生においてその意味は大きく異なります。

例えば、「赤信号では横断しない」というルールを教えたのに、それを守らない。 他人と約束したことを守らず、迷惑をかけてしまう。そういう「失敗」に対しては、親は子どもを叱り、二度と起こさないようにするべきです。

しかし、人生はそう単純なルールで決められることばかりではありません。すべて親に言われたとおり、社会が決めたとおりに生きているようでは、ロクな人間になれないでしょう。大人になれば、自分でルールを定めていくこと、つまり自分の軸を持ち挑戦することが求められます。

挫折経験なしに社会に出た人間は挑戦に臆病になる

ただ、挑戦がいつも上手くいくとは限りません。どうしても他の人から理解してもらえない、考えが突飛すぎるので容認できない、と言われることも多々あります。自分としては真剣に考え、答えを出した上での行動であったにもかかわらず、受け入れられず、夢破れることもあるでしょう。それが挫折です。

挫折は苦しいものですが、また新たなルールを作る機会でもあります。それが次の成功へとつながるかもしれないという意味において、挫折と失敗は違うのです。

挫折にせよ失敗にせよ、そんな経験はないほうが幸せな人生だと思いますか? でも、これだけは言えます。挫折経験なしに社会に出た人間は挑戦に臆病になる。成功と失敗の経験値の振れ幅が小さいと、心の柔軟性がなく、肝心な時にポキッっと折れてしまうからです。

人間はみな平等であるべきだという理念は、そのとおりです。しかし、残念ながら現実の社会はそうではなく、エゴや差別が渦巻いています。世の中には、人種差別もあれば、男女差別や学歴差別も残っています。会社という狭い単位の中ですら、派閥的な争いがあることは、多くのビジネスパーソンが経験していることでしょう。