このような状態を心理学的には「認知的不協和」と呼びます。これが重なると、自分で自分を信じることが難しくなります。自分が信頼できないということは、当然ですが、自己肯定などできないということになります。
◎道徳心が低い人
あなたは自分を「善人」だと思いますか?それとも「悪人」のほうに近いと思いますか?簡単な質問のように見えて、実はよく考えるととても難しい問題です。
「自分は周囲とあまり衝突することもなく、相手を立てることも多いから善人かな」と考える。同時に、「いや、でも言葉とは裏腹に相手のことを否定していたり、うそを言ったりすることもあるから、悪人かもしれない」と考え直す……。自分だけでなく誰に対しても、善人とか悪人と決めつけることは難しいと思います。
ただし、人間は誰もが心の中で「善くありたい」「正しくありたい」と思っているのです。「正しく」「善く」あることで自分で自分を認め、他者からも認められるということを、本源的に知っているのです。
とはいえ、この気持ちには個人差があると思います。善くありたいと思う反面、人間にはさまざまな欲望があり、相手よりも上に立ちたいとか、裕福になりたいと思うものです。ときに、それによって相手を攻撃したり、おとしめたり、嫉妬などを覚えたりします。
その葛藤の中で、自分を律し、正しくて善い行動を行う人もいます。自分の中に「こうありたい」とか、「これだけはやってはいけない」という規範ができているからこそ、自分を律することができるのです。
自分の中の基準、道徳心といってよいでしょう。これが曖昧な人は、自分の欲望に流されて、自分の中の悪が勝ってしまうのです。すると、結果として自分自身を受け入れることが難しくなり、自己肯定感も育ちにくいということになります。
◎根拠のない優越感に取りつかれている人
自信満々で、何事にも積極的な人は、一見、自己肯定感の高い人に見えます。ただし、なかには「過剰な自意識」と、半ば妄想に近い万能感に基づいた「虚構の自己像」に酔っているだけの人がいます。あなたの周りにも、こんな「イタい」人がいるのではないでしょうか?
根拠のない自信や万能感は、幼児性からくるとされます。
赤ちゃんはおなかが減ったり、排泄をしたりすると、大声で泣くことで自分の状態や要求を伝えます。すると、すべての世話を親や周囲の人がしてくれます。ある意味、自分が世界の中心であり、つねに誰かから手が差し伸べられる存在です。そんな幼児の万能感や自己中心的な感覚は、通常は成人するほどに現実を知ることで、消えていきます。
ところが、まれにその感覚が成人しても残っている人がいるのです。当然のことですが、冷静な自己認知に基づいた自己肯定感を得ることは難しいでしょう。本来根拠のない自信ですから、それをごまかし補うため、つねに他人からの評価や賞賛を欲します。
しかしながら、他人に対する優越性を望めば望むほど、現実と自分の描いた自己像とのギャップが広がり、無意識の中では強い自己否定に取りつかれてしまうことになります。
最後に、自己否定しやすい「親」の特徴を紹介しましょう。
アドラー心理学で知られるようになった「課題の分離」ということがあります。「自分の課題」と「他者の課題」を混同することで、余計な心的葛藤やストレスを抱えてしまうことです。それを避けるべく、「課題を分離しなさい」とアドラーは指摘します。
たとえば、自分の子どもにもっと勉強に力を入れて、いい学校に進学してほしいと多くの親は期待するでしょう。しかし、勉強するのは子どもであり、それによって進学、就職して人生を切り開くのは、子どもたちの問題です。
子どもの課題に首を突っ込み、あたかも自分の課題として錯覚する親が多いのです。それによって、思い通りにいかないと嘆き、親としての自信を失ったり自己否定したりしてしまう。
そもそも子どもの課題なのですから、自分が何とかできる、何とかしようと思うことが錯覚であり、傲慢なことなのです。
コントロール不可能なことまで抱え込み、それがうまくいかないからと、自信を失い、自己肯定感を低めてしまうのは、実にナンセンスです。ところが、往々にして私たちはこの過ちを犯してしまうということを知っておく必要があるでしょう。