ラーメン屋のあいさつが「っしゃっせー」な深い訳

簡略化した例で考えるとわかりやすいかもしれない。次の2つの文を考えてみよう。

① 昨日、お昼に ______ を食べたよ
② 昨日、お昼に焼肉屋で_______を食べたよ

友人と会話をしていて、ちょうど、①と②の文の_____の部分だけ友人の言葉が聞き取れなかったとする。ちなみに正解は「カルビ定食」だ。さて、こんな状況で①と②のどちらの文のほうが_____の部分のエントロピーが高いと言えるだろうか?

答えは①である。ノーヒントで友人の昨日のランチを言い当てるのは、ほぼ不可能に近い。ただ、②のように、昨日のランチが「焼肉屋」だったと聞けば、友人が何を食べたか、だいぶ予測しやすくなる。

しかし、①ではその予測がより難しい(=予測不可能性が高い)。われわれは、そのような聞き手にとって予想が難しい状況、つまりエントロピーが高い状況で、「カルビ定食」を、よりはっきり発音するということだ。

はっきり発音されなくても客はわかる

本格的な研究の場では、データベースを用いて、さまざまな文脈におけるエントロピーを数学的に計算し、それがわれわれの音声発話特徴にどのように影響を与えているかを統計的に研究する。

英語を例にとると、例えば「west」や「left」などの単語の語末の[t]が消えやすいことは前々から知られていた。しかし、エントロピーが低い状況で、この消失現象がより起こりやすいことが近年の研究で示されている。

しかし、わざわざ統計手法を用いなくても、言語におけるエントロピーの役割が実感できる機会は、たくさんある。たとえば、ラーメン屋でも吉野家でもいいから、なるべく気軽に入れる飲食店に入ってみるといい。「っしゃっせー」という声が聞こえてくるだろう。

店員さんたちは、明確に「いらっしゃいませ」とは発音していないと思う。しかし、客が食べもの屋に入ってきたのだから、店員が客に第一声でかける言葉は、ほぼ確実に「いらっしゃいませ」だということを、私たちは容易に予測できる。

つまりこの言葉は予測可能だから、その発話のエントロピーは限りなく低い。予測可能ということは、そのメッセージが含む「情報量が少ない」と言ってもいいだろう。低いエントロピーに発話の労力を費やす必要はない。

だからラーメン屋さんが第一声で「っしゃっせー」と簡略化した発音をすることは、エントロピーの観点から非常に理にかなっている。男子校の部活動で先輩に会った時に「こんにちは」とは言わず「ちわす」と縮めるのも同じ原理であろう。

エントロピーの法則に逆らう正当な理由

「ちょっと待て」と思った人もいるだろう。すべての食べもの屋で「っしゃっせー」と縮めるわけではない。あなたの通うラーメン屋はともかく、あたしの行きつけの高級フランス料理店ではしっかり「いらっしゃいませ」と発音するわ、と。

しかし、実はこちらも、これはこれで筋が通った話なのだ。高級フランス料理店でのそのようなお出迎えをするのは、「私は、このあいさつのエントロピーが低いにもかかわらず、しっかりと発音しています。つまり、エントロピーが低くても、エントロピーの法則に逆らってでもあなたには『いらっしゃいませ』と伝えたいという気持ちを持っています」ということを含意する。つまり、言外の意味として、「丁寧さ」が伝わるわけだ。

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また、エントロピーは例のアレとも関わってくる。先日、噂のアレをついに妻がやった。アレってあれよ。「アレしておいて」のことだ。夫婦の時間が長くなると起こると言われるこの伝説の現象。これは夫婦の関係が成熟することで「アレ」のエントロピーが十分に下がったことにより、つまり「アレ」の意味が予測可能になったことにより、「アレしておいて」でも十分に伝わるようになるのだ。

とまぁ、エントロピーについて熱く語った後に、自分の寝室に戻ってみると、娘たちのおかげでエントロピーがすっかり増大していた。寝る前にエントロピーを少し減らしておかないと、すっきり寝られなさそうだ。ともあれ、今夜は『孔雀王』の夢を見ながら、大日如来の力を借りて悪と戦うことにしよう。