入学前に作った「キャラ」演じる大学生たちの苦悩

出会い系の場合にプロフィールに記入するのは、年収が高いとか、社会的に威信の大きな職業に就いているといった「ポジティブな要素」でしょう。平成末に生じた変化はネガティブに扱われがちな被差別属性(LGBTや発達障害など)を、あえてSNSのプロフィール欄に記入する人が増えたこと。いわゆるカミングアウトの風潮です。

もちろん、そうした属性を「隠さないと暮らせない」社会は最悪ですから、その点では進歩した面がある。ただ斎藤環さんによれば、精神医療の現場では「カミングアウトしやすい病気/しにくい病気」の格差が、その分深刻になっているそうです。

体験者の多い「うつ」や、メディアで一時ギフテッド(特殊な才能)のように扱われた発達障害は、オープンにしやすい。逆に症例の少ない統合失調症や、「だらしない人」のような偏見にさらされやすい各種の依存症は、いまもカミングアウトしにくく、疎外感が以前より強まっている面さえあるようです。

「絵になる弱者」だけが注目される逆説

これがまさに、マイノリティを「キラキラさせる」ことでPRする社会運動の限界でしょう。視覚的に華やいだ演出が可能な「絵になる弱者」だけが注目と共感を独占し、本当に苦しい人たちの存在は不可視の場に追いやられる。

これはコロナ禍でも見られた現象で、医療関係者の多忙さはドラマチックに描けますから、メディア上で日々流されて自粛を煽ることに利用される半面、夜の街に勤める人の困窮ぶりは無視されてしまうわけです。

拙著『過剰可視化社会』で東畑開人さんとで掘り下げて議論したとおり、もう1つ、プロフィール上のカミングアウトには気をつけたい副作用があります。LGBTにせよ各種の病名にせよ、なんらかの「タグ」を自分につけて明示することは、時としてその人が得られるべき配慮(ケア)の質を、充実させるのではなくむしろすり減らしてしまう懸念を禁じ得ません。

社会に向けて発言する精神科医のはしりだった大平健氏が、1995年に刊行した『やさしさの精神病理』というロングセラーがあります。

学生運動が盛んだった70年安保の前後には、ほかの人が抱える傷や苦しみを自分も想像し、互いに積極的に関わっていこうとする気持ちが「やさしさ」と呼ばれたが、その後1990年代までには正反対の、新たに相手を傷つけることを避けようとして内面には踏み込まず、なるべく黙って距離を置きあう予防的な姿勢が「やさしさ」として定着したと指摘しました。

そうした状況でいま、自分の病名を「タグ」にすることには、両義性が伴うでしょう。おそらく本人としては、その病名を検索して「自分も同じです」といった仲間を見つけたい、つまりほかの人との接触を求めてプロフィールに載せている。もちろんそれは、まったく否定されるべきものではありません。

タグだけが「独り歩き」する危うさ

しかしここが視覚偏重社会のわななのですが、目に見える「タグだけ」が本人のアイデンティを代表するように扱われてしまうと、それはむしろ接触回避的にも機能します。

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つまり、その人と実際に会って触覚的に感じた印象ではなく、タグになっている用語(たとえば病名)をウィキペディアや書籍で検索し、当人とはまるで関係のない場所の文字のみから得た「知識」だけで、相手のイメージを埋め尽くしてしまう。

むろん病気や障害などの相手の特性を知らずに付き合えば、どこかでぶつかったり傷つけたりしてしまうかもしれません。

しかしそのときに反省したり、許したりすることで深まってゆくはずの相互理解が、「辞書にこう書いてあったから、その通りに接すれば問題ないんでしょ」という形で責任回避の論理に転じてしまわないか。一度でも「ネガティブな衝突は起きてはいけない」という、未然防止的なやさしさが煮詰まった現在だからこそ、気をつけなくてはいけないと思います。