先の例にあてはめて考えてみよう。もしも優れた古物商になりたいのであれば、目利きの能力を高めることは不可欠だ。したがって、より多くのものを見て審美眼を養わなければならない。時間はかかるだろうが、それを繰り返していくうちに、やがて本物と偽物の違いがわかるようになってくるわけである。
そして、それは「読む習慣」にもあてはまることだ。
読む習慣がないところから始めるのだから、慣れるまでは「この文章は信頼に値するか否か」を判断しづらいだろう。そんなときには、的確な判断が下せないことを不安に感じるかもしれない。だが、その段階ではそれでいいのだ。なぜなら、成長段階なのだから。よって、少しでも早く真偽を見分ける能力を身につければいいのだ。
音楽を聴き始めたばかりの、中学生くらいのころのことを思い出してみてほしい。まだ知識がなかったその当時は、あまり音楽的な質が高いとはいえないヒット曲でさえ、ミーハー的に好きになったりしたのではないだろうか? しかも、その渦中にいるときには人から「その音楽はレベルが低いよ」と指摘されてもピンとこなかったはずだ。それどころか、抵抗すら感じたかもしれない。私にも似たような経験がある。
ところが、そののちいろいろな音楽を聴き込んでいくと、以前は好きだったはずのその曲のことをダサく感じたりするようになったりもする。そしてその結果、「その音楽はレベルが低いよ」という指摘の意味も理解できるようになるだろう。つまりはそれこそ、“聴く耳”が養われたことの証拠だ。
ミーハー的に惹かれた初期段階を経て、さまざまな音楽体験を重ねた結果、知識がつき、それが的確な判断能力として成熟していったということ。
文章も、まったく同じなのである。いろいろな文章を読んでいけば、最初のころはなんとなく「いいな」と思うだけで終わってしまうかもしれない。だが、読むことに慣れていくと、以前は魅力的に感じられた文章のアラが見えてくるようにもなる。それは、自分自身が成長したことの証しなのだ。
だからこそ、読む習慣を身につけることは大切なのだ。たくさん読んでいけば嫌でも判断能力は身についていくし、読んだぶんだけ自分の内部にストックができもする。そして、いつか自分が書いてみようと思ったとき、そのストックが力になるのである。
ところで、文章を書く場合には「ですます調」にするか、「である調」にするかで悩むことになるかもしれない。柔らかな印象を与えたいのであれば、適切なのは丁寧語で統一された「ですます調」ということになるだろう。逆に硬さや強さを強調したい場合は、断定形を用いた「である調」がいいかもしれない。
ただ、どちらかが絶対的に正しいというような基準があるわけではない。書き手の主観によるところが大きいわけで、私も媒体によって両者を使い分けている。「この媒体の読者には、問いかけるような『ですます調』がよさそうだな」とか、「こちらの媒体では主張をしたいから、『である調』でいこう」というように。もちろん、それだって感覚的な判断でしかないわけだが。