このようにアメリカでは、細かいことにとらわれることなく、先生など権力がある人がどう考えているかさえ気にせずに、自分の意見を堂々と発表できる場を、子どもから大人にいたるまで提供されている。
このように「自分はどう考えているのか」を言葉にし、堂々とアウトプットし続けることを通じて、自己肯定感を育てるために一番大事なこと、つまり「私は私のままで大丈夫」という自らを肯定する訓練がなされていく。
私は人生の半分を日本で、残り半分をアメリカで過ごしている。個人差があるから、「日本人が全員こう」「アメリカ人全員がこう」とは言えないけれど、あえてざっくり言うならば、アメリカでは「ノーと言われるまでイエスだと思って行動する人」が多いのに対し、日本では「イエスと言われるまでノーだと思って行動しない人」が多いように思う。
つまりアメリカでは、その行動がしていいことなのかどうかわからないときでも、とりあえずやってしまう。そしてお役所、警察、親、先生、上司など、誰か従う必要がある人にノーと言われた時点で「やっちゃいけないって知らなかった」と言って止めるか、それを行った理由を自分で説明すればいいと考える人が多いのだ。
一方で、日本では、その行動がしていいことなのかどうなのかわからないとき、従う必要がある人にイエスと言われるまでやらない人が多いように思う。
例えばこういうことだ。これは私のコーチングの師匠であるアラン・コーエンさんから聞いた、彼のアメリカ人の友人が東京で経験した話。その友人の名前を仮にトムとしよう。
トムは台風が来ている東京の街中を歩いていたのだが、雨風がどんどん強くなり吹き飛ばされそうになっていた。大きな横断歩道があったけれど、こんな天気なので車は1台も走っていない。トムは信号が変わるのを待っていたら、ずぶ濡れになって風に吹き飛ばされると思ったので、赤信号を無視して走って横断歩道を渡った。
渡り切ってふと後ろを振り返ると、日本人は全員、ずぶ濡れになって吹き飛ばされそうになりながら、車が1台も走っていない横断歩道で、信号が変わるのをじっと待っていたそうだ。
台風で1秒でも早くどこか屋根があるところに逃げないと危険だと思われるとき、車がまったく走っていない大きな横断歩道を、赤信号を無視して渡っていいかどうか?
そのとき、アメリカの多くの人は、警察に見られて怒られたら「だってこんな暴風雨だし、車が1台も通っていないし、信号が変わるのを待っているほうがかえって危険だから」と説明すればいいと自分で判断して、さっさと横断歩道を渡ってしまう。つまり、信号というのは本来は人々の安全を守る役目をするのはわかるけれど、とっさに状況を判断して、この場合は信号を守るほうが危険であると、自らの判断で上書きする。
日本の人は、警察官がそこに立っていて「身に危険がせまっているから、信号を無視して渡っていいよ」と許可をくれない限り、赤信号では待たないといけないことになっているからと、渡ろうとしない人が多いのではないだろうか。あるいは、ルール違反というレッテルを周りの人から貼られるくらいなら、ずぶ濡れになったほうがいいと考えるのかもしれない。
法律もルールも本来、人々が幸せで安全に暮らすためにある。なので私たちは、法律やルールに脅かされたり、振り回されたりするために生きているのではない。法律、ルールは、時と場合によって変わって当然だし、想定外のことが起こったら、自分の幸せや安全を最優先して上書きしても構わない。
このような自分で判断すべきという思考は、ありのままの自分、自分の直感に従って生きていくという自己肯定感に繋がっている。