「他国に守ってもらおうなど甘すぎる」歴史の教訓

他力本願がいかに危険かは、歴史が物語っています(画像:Ystudio/PIXTA)
日本からほど近い台湾に、かつて「中国の一部」であり続けることを目標にしていた国があったことはご存じでしょうか? その名は「台湾民主国」。
「滅亡した国の歴史を学ぶと、時に現在の世界情勢と真逆の姿に出合うことも。なぜ180度の方針転換を迫られたのか、そこには現代人が学ぶべき『教訓』が数多く存在する。とくに世界激動の今、『他国との関係性』について台湾民主国は重要な教訓を教えてくれる」と話すのは『世界滅亡国家史』の著者ギデオン・デフォー氏。同書より、「台湾民主国」を取り上げます。
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中国のような広大な領土を誇る大国であっても、冷静でいられない話題が1つや2つはあるものです。「台湾」はその1つで、「1つの中国」を主張する中華人民共和国は、台湾と諸外国との関係に神経を尖らせています。日本の皆さんはよくご存じでしょう。

しかし皮肉にも、今回取り上げる「台湾民主国」(別名、フォルモサ共和国)は、中国の一部でありつづけることを唯一の目標にしていた国で、現在の政治的な争いとは正反対の希望を持っていました。

(出所)『世界滅亡国家史』(サンマーク出版)

「オランダ」の植民地から「清」の一部に

「フォルモサ」という別名の起源は16世紀なかばにさかのぼります。あるポルトガルの貿易船が台風で進路からそれ、この島の東岸を通り過ぎたときのこと。乗組員の1人が島の光景に感動して「イーリャ・フォルモーザ」(美しい島)と呼び、それが島の名前として定着しました。

その後、この島はオランダの植民地になり、次いで清王朝の一部となります。フランス人のジョルジュ・サルマナザールという人物が『台湾史』(1704年)で島民の奇妙な習慣を紹介すると、ヨーロッパ中で台湾という島が話題となりました。しかし、この本で取り上げられたのは、「蛇が主食」「毎年1万8000人の少年が生け贄となる」などでたらめばかりではありましたが。

欧州のセンセーショナルとは裏腹に、現実の台湾は19世紀まで低迷の歴史をたどります。島には汚職が蔓延し、何より清本土がうまくいっていませんでした。

清と日本は朝鮮をめぐって戦争をし(日清戦争)、清は敗北。日本は清に「下関条約」という講和条約を突きつけ、台湾の割譲を要求します。

清国代表団のリーダーは、「島ではマラリアが蔓延し、アヘン中毒者が大勢いる」と言って、日本側に台湾領有を諦めさせようとしますが、日本側にこの策略は筒抜け。日本が譲歩することはありませんでした。

日本割譲への反発から台湾が独立

多くの台湾住民が母国によって売られることに反発し、地元の支配層が中心となって反乱を起こします。そして、当時台湾の長官を務めていた唐景崧(とう・けいすう)は独立を宣言します。

「台湾の知識階級と大衆は、日本への従属に抵抗することを決意する。台湾は自ら独立した島共和国であることを宣言し、同時に、神聖なる清王朝の支配領土であることを承認する」という宣言のもと、「台湾民主国」樹立が発表されました。通貨も、新王朝の貨幣が引き続き使用されることになります。

独立宣言の背景には、日本の侵略に抵抗するこの勇敢な新しい国を守るためにイギリスが介入してくれるだろうという期待がありました。しかし、歴史の教訓としてぜひ覚えてほしいのですが、「他国が守ってくれる」はたいていの場合実現しません。台湾民主国の場合も同じでした。

日本軍の派遣団・第1陣が現れると、台湾民主国の新しい政府は即座に逃亡してしまいます。民衆は激怒、新政府の建物に火をつけるなど暴動に発展します。唐自身はというと、軍事視察という口実で港を訪れた際、なんと出港間近のドイツの船にさっと飛び乗り逃亡。この逃亡劇から、彼は「10日総統」というあだ名をつけられました。