「きのう何食べた?」万人から愛される納得の理由

そして2つめ。シロさん(時々ケンジ)の作る料理は気取っていなくて好感がもてる。アクをとるなどの作業は手を抜かないし、一品料理ではなく必ず何皿か作る「副菜の鬼」ではある。それでも、基本的に誰にでも作れそうなメニュー(材料も手軽に入手可能)が多い。シロさん自身も「めんつゆと顆粒だしでほぼほぼ乗り切る」と自嘲。いわば毎日作っている人の料理なのだ。

文字通り、日常茶飯事。そこがいい。聞いたこともない材料や調味料を使い、全体的にすかした料理をドヤ顔かつ上から目線で出す主人公では、この物語は成立しないもんね。

料理が得意ではない私も、連ドラの「ツナとトマトのぶっかけそうめん」、劇場版の「リンゴのキャラメル煮」は作った。これなら作れると思わせる料理や、今ある材料で作れる料理というのは、重い腰を上げさせて人を台所に向かわせるもの。

そういえば、連ドラ放送中は登場した料理をこぞって作り、SNSにドヤ顔でアップする人が大量発生。サッポロ一番は断然塩派の私でも、素直に「今度味噌も買ってみるか」と思わせるだけの説得力が、この作品に登場する料理にはあるからね。

ささやかな日常こそ最上の幸福

個人的には、このふたりが中年期であることがとても重要だったと思う。そもそもクローズドなゲイだったシロさんとオープンなゲイのケンジは、40代だからこそいたわり合える。若い頃にノンケのフリをして女性と付き合ったことがあるシロさん、昔浮気をして恋人を傷つけたことがあるケンジ。嘘の苦しみも自責の念も痛みも経験済み。

年齢を重ねたことで、切り捨てられるようになった欲望やこだわり、沸点が低くなった感情、視点を変えることができる柔軟性、優しい嘘の使い分けなどに説得力もある。もちろん、すべての中年がこんなに成熟しているわけがないのだが、「毎日ふたりで一緒にごはんを食べる」というささやかな日常が本当の幸せだと思えるのは、経験と年齢を重ねているからでもあり。

この対比として登場するのがジルベールこと井上航。磯村勇斗が演じるジルベールは、自分にベタぼれな年上彼氏の小日向大策(山本耕史)をワガママ言いたい放題で振り回す。

ジルベールこと井上航(写真:劇場版『きのう何食べた?』公式サイトより)

彼氏に時間とお金をかけさせ、心配をかけて、愛情の試し行動を繰り返しているのだ。素直に愛を口にせず、安売りしたら軽く見られると思っている。「恋愛は駆け引き」が信条。この感情の起伏が激しい年齢差カップルの存在は大きい。中年同士のシロさんとケンジが穏やかな日常を最上の喜びとする意義を、より際立たせているからだ。

また、中年期ということは親が老年期。テレビドラマは基本的に若い人が主軸になるため、親も子もまだまだ現役、「老い」に直面していない。

シロさんとケンジは親の老いを目の当たりにすることで、ふたりの絆を強固にしていく。連ドラ・スペシャルドラマ・劇場版で共通して登場するのが、シロさんの両親だ。頭の固い父を田山涼成(ドラマ版の前半は故・志賀廣太郎)、料理上手で古風な母を梶芽衣子が演じている。

息子がゲイと知っても父はまったく理解できず、家では女装をしていると思っている。母は母で、息子を知ろうと努力はするものの本当の意味でゲイを理解していない。正直、厄介な両親ではある。

ついにケンジの母も登場

シロさんが正月にケンジを初めて実家に連れて行き、両親も受けいれたと思わせたのがドラマ版の最終回。スペシャルドラマでは父が頭を下げて、シロさんに仕送りを依頼してくる。

劇場版ではこの両親のせいでケンジがひどく傷つくハメに。さらに、ケンジの母(鷲尾真知子)も登場。実家である美容院を継ぐ話をもちかけてくる。夫が女をつくって家を出て、時々帰宅しては暴力をふるって金を奪っていく。それでも離婚しないで三人の子を育て上げた、たくましい母が引退を宣言。

ちなみに父は千葉で生活保護を受けているため、毎年ケンジのもとには役所から扶養届書が届く。扶養も断り、会うこともないが、その封書は父の唯一の生存確認だ。

確実に家族は老い支度を始めている。シロさんとケンジはそれぞれの親の病や衰え、老いを目の当たりにし、経済的な援助や家業の継承という話も浮上。ふたりは自分たちにできることだけをする。

結婚するとか、孫の顔を見せるとか、金を出すとか、家業を継ぐとか、自宅で介護するとか、親が望むことをかなえるのがはたして親孝行だろうか? その答えをふたりが出してくれた気がする。親が思うほど不憫でも不幸でもなく、むしろささやかな日常を最高の幸せと感じている。それこそが本当の親孝行ではないか、と。

ゲイカップルの日常を描いたら、人類共通の救いがあって一体感が生まれた。結婚していなくても、子供がいなくても、裕福でなくても、毎日おいしいご飯を食べて小さな幸せを噛みしめる。万人に愛される本当の理由はそこにあるのではないかしら。少なくとも私は救われた気がするよ。