「私がそう言うのだから」というのは、人に、こちらがさせたい何かをやらせるのに最善の方法ではない。それはまた、人を率いるのに最善の方法でもない。当然のことのように見えるかもしれない。
だが、「私がそう言ったのだから」は現実に、さまざまな形で用いられている。「これは私の命令だ」「これは私のプロジェクトだ」「私は君の上司だ」。これらはどれも、「私がそう言ったのだから」の変形にすぎない。
そしてこれらはみな、リーダーシップの効率性という観点からは同等だ。いいかえれば、どれも効率性は低いということだ。これらの言葉はどれも、あなたの部下が全力で任務の達成に向かうよう、背中を押しはしない。
彼らは命令には従うだろう。だが、本物の熱意や不屈の精神をもって取り組みはしない。なぜなら彼らは、なぜ自分がそれを「やらされている」かを理解していないからだ。
そういうふうになるのは失敗だ。部下には、なぜそれをするのかをきちんと説明することだ。なぜそれを、ある方法で行わなければならないかを説明しよう。何かのタスクや作戦や手順がなぜ重要なのか、それがチームや会社や任務にどう影響するかだけでなく、彼ら自身にいかに影響するかも、きちんと理由をつけて説明することだ。
「私がそう言ったのだから」と言うべきでないのには、もうひとつ重要な理由がある。それは、そう言うあなたが間違っているかもしれないからだ。もし部下のひとりが、なぜ自分たちにそれを、そのやり方で行わせたいかをあなたに質問してきて、それに対するあなたの唯一の答えが「私がそう言ったのだから」だったら、それは、あなた自身がその理由を理解していないという証明にほかならない。
もしあなたが、なぜそうするのかの理由をわかっていないのなら、いったいなぜあなたはそれを行うのか?
私は一時期、テクニカル・ハードウェアの会社のために仕事をしていた。その会社は当時、初めての大きなプロジェクトに乗り出そうとしていた。多くの若い企業と同じように人手不足だったが、こなさなければならない仕事はあった。
私は大勢のエンジニアたちに、そしてCEOを含むエグゼクティブ・チームに、いま自分たちが何を何のためにしているかを理解するのがいかに重要であるかを説明していた。私は前線のエンジニアたちに、もし自分たちがしている仕事の理由がわからなかったら、上司に聞くべきだと話した。
エンジニアのひとりがこう言った。「もし上司がわからないと言ったら?」。
私は答えた。「上司の上司に質問してください」。
「その人もわからないと言ったら?」。相手はさらに言った。
「ならばその上の人に、さらにその上の、そのまた上の人に質問してください」と私は言った。そしてCEOのほうを見て言った。「この会社のCEOとしてあなたはこの製品を市場に届けたいとお考えになっているでしょう。そこで伺いますが、あなたは、チームの人間がだれひとり自分のしている何かの重要性を説明できないまま、この組織の全員が何かに取り組むことを望みますか?」。
「まさか」とCEOは答えた。「この事業を始めるのには大変な作業が必要で、すべての社員に重要な任務を担ってもらわなければならない。もしあなたの配下の人間がだれひとり、この任務の実行において何かが重要であるわけを説明できないのなら、あなたに任せた意味がない」。
このように「なぜ」を説明するのは、前線にいる隊員が理解のうえで任務を実行できるようにするためでもあるが、そのうえさらに、前線の隊員たちが重要でないものごとに時間やエネルギーを費やさないようにするためでもある。「私がそう言うのだからそうしろ」というアプローチは、こうした利点をすべて潰してしまう。
もしあなたが「私がこう言うのだからこうしろ」と口にしているようなら、それは直ちにやめて、評価を行い、部下に対して、そしてあなた自身に対して、なぜそれが必要なのかの本当の理由を説明することだ。
(翻訳:森内薫)