僕らはみな、職場での役柄を家庭にもち帰ったり、恋愛関係に友人の役柄をもち込んだりしているが、自覚や意図をもってやっているわけじゃない。しかも、その役柄をどんなにうまく演じたところで、結局は満足できずに、気が滅入り、自信をなくし、みじめな気分を味わっている。
僕らが「自分」と呼んでいるものの姿は、ただでさえちっぽけで傷つきやすいうえに、ゆがんでいるからだ。
僕らは、他人にそう思われていると思っている自分の姿に忠実であろうとするあまり、自分の価値観さえも犠牲にしてしまう。いや、そもそも自覚や意図をもって、自分の価値観どおりに生きたことが一度でもあるだろうか?
僕らは他人の目に映る自分を見て、それが自分かもしれないと思っている。しかも、その屈折した自己像をもとに人生の決断を下していることに、たいして疑問も抱かない。
社会学者のクーリーは、そうやって形成される自己像を「鏡に映った自己」と呼んだ。僕らは、他人の感じていることを感じとり、それが自分だと思って生きているうちに、ほんとうの自分を見失ってしまった。
他人の夢を自分の夢だと思い込んで追いかけていたら、自分がほんとうは何者で、何に生きがいを感じるかなんて、どうして分かるだろう?
僧侶になると宣言した僕に周囲が示した反応は、僕ら若者が日頃から受けているプレッシャーの典型例だ。
家族や友人、社会やメディアは、「人はこうあるべきだ」とか「こうするべきだ」というメッセージをさかんに発している。彼らは意見と期待と義務を声高に叫ぶ。高校を終えたら一流大学へ入れ。金になる仕事を見つけろ。結婚しろ。マイホームを買え。子どもをつくれ。出世しろ。
世間には世間なりの標準が存在するものだし、幸福な人生とはこんなものかもしれない、という社会的モデルがあってもおかしくはない。ただし、そのモデルを無条件に自分の目標にしてしまうと、現実に達成できないとき、訳が分からなくなる。
なぜ今の自分はマイホームを買えないのか、なぜ今いる場所で幸せではないのか、なぜ今の仕事に虚しさを覚えるのか。いや、そもそもほんとうに結婚したいのか。それどころか、めざしているゴールはほんとうに自分が望んでいるものなのか。
本格的にアシュラムに入るという僕の決断は、周囲を騒然とさせたが、その種の雑音に心を惑わされずに済んだのも、やはりアシュラムで経験を積んでいたからだ。問題の原因と解決策がいっしょだったわけだ。
周囲の人間が、正常で、無難で、現実的で、最高だとする人生の定義に、僕は振り回されなくなっていた。
自分を愛してくれる人たちと縁を切ったわけではない。どの人も大切だったし、心配してほしくはなかった。でも、だからといって、彼らの定義に合わせようとは思わなかった。人生で最も難しい決断は正しい決断だった。
両親、友人、学校、メディアは、ああだこうだと言って、自分たちの信念や価値観を若者に植えつけようとする。社会が言う幸せな人生の定義は、誰にでも当てはまるように見えて、じつは誰のものでもない。
ほんとうに自分らしい人生を送りたければ、周囲の雑音にフィルターをかけて、自分の内面を見つめるしか道はない。それが「モンク・マインド」を育てるための旅の第一歩だ。
僕らは、僧侶のように邪魔なものをそぎ落とすことから、この旅を始めよう。まずは、僕らを翻弄し、大切なものを見えなくしているプレッシャーに目を向ける。そして、今の生き方のベースになっている価値観の棚卸しをして、その価値観が、ほんとうになりたい自分、ほんとうに生きたい人生と合致しているかどうか考えよう。
(翻訳:浦谷計子)