「スケボー」が子どもたちから熱狂的支持を得る訳

何度も何度もコンクリートの上で転び、その度にすぐ立ち上がって再び滑り出す兄弟たち。防護用のヘルメットを被っているのは彼ら2人と数人だけだが、大人のスケーターたちは、彼らを子ども扱いすることなく、1人前のスケーター同士として対等に接しているのが、態度や声かけから伝わってくる。

「聖地」の問題は治安の悪化

「長男は手を骨折して2カ月ほどボードに乗れなかったけど、ギプスが取れたらすぐ練習したがった」とマルセルさんは言う。

観光客で賑わうベニスビーチはコロナ禍でホームレスの人々が急増し、昨今はドラッグ問題など治安が悪化し、先日は殺人事件と傷害事件が起きたばかりだ。

聖地とされるベニスビーチのパークのほか、ロス市内には21の公営スケボーパークがある(写真:筆者撮影)

「親の目が届き、常連スケーターの多いこのパークで滑るのはいいけど、近所の路上で滑るのは危なすぎるからうちの子には禁じてる。自治体はホームレスの人々への住宅支援をもっとしてほしいよ。以前は、自治体がこのパーク自体も毎日高速洗浄していたけど、そんなサービスも最近はないし」と住民のマルセルさんは言う。

この「聖地」ベニスビーチからクルマで1時間半ほど北西の内陸部にあるシーミーバレーには、「スケートボーディング・ホール・オブ・フェーム博物館」がある。

館長のトッド・ヒューバーさん(56)は、1950年~1960年頃に使われていた古い手作りスケートボードを30年間以上かけて蒐集し、5000点以上を展示している。

スケートボーディング・ホール・オブ・フェーム博物館館長のヒューバーさん(写真:筆者撮影)

「スケートボードがいつから始まったかは諸説あって誰も本当のことを知らない。僕が初めてスケートボードを体験したのが1971年で6歳のとき。母がボードを買ってきてくれた。学校に持っていって滑って遊んでいたら、先生に怒られた。それでよけい大好きになったよ」

シーミーバレーの街は海から離れた土地のため、サーファーに憧れていたヒューバー少年は、サーフィンに動きが似ているスケートボードにのめり込んだ。「用水路とかドブ川の縁のコンクリートで毎日滑りまくった。それ以来、今もずっと滑ってる」。

当時からさらに20年前の1950年代には既製のスケートボードはまだ存在せず、人々はローラースケートの車輪を切って、小さな板に車輪を貼り付けて、それをボードにして乗っていた。彼はそんなヴィンテージの手作りボードを集め続けてきた。

「ガタガタで酷いシロモノだが、それでも当時これで滑るのは楽しかったんだろうね。カリフォルニア住民は、誰もが人生に一度は必ずスケートボードを体験しているはずだよ」

ヒューバーさんがスケートボードの博物館を個人で作ってしまうほど、このスポーツを愛している理由は、自由で型破りで滑りに無限の可能性があるからだと言う。

「例えばフィギュアスケートなら、3回転の一番難しい技はトリプルアクセルでそれ以上はない。回転の方向は一定で、いつも同じ。つまり次にどんな技が出るか観客は予測できちゃう。でも、スケートボードは違う。『スイッチ』と呼ぶ逆軸足バージョンでもできるんだ。まるで右利きの人が左手で字を書くように、瞬時に軸足を切り替えて、反対方向に動くことができる。こんなに自由でスリルのある競技、ほかにはないよ。雪や土や水ではなく、コンクリートに直接叩きつけられて、骨が折れるかもしれない危ない競技って、ほかにある?」

失敗のほうが多いから互いにリスペクトしあう

また、ボード1つさえあれば、ほかには金銭的負担がかからないため、経済格差が障壁にならないスポーツでもあるとヒューバーさんはいう。

こんな形の自作スケート・ボードも昔存在した(写真:筆者撮影)

前述のコーチのバスクさんいわく、もしあまりにもボロボロなボードを使っている子どもがいたら、周囲のスケーターたちが、その子に自分のボードを譲ることも多いという。

「このスポーツでは、技が成功する数よりも、失敗して身体が固い道に叩きつけられる数のほうが圧倒的に多い。何度失敗しても立ち上がる。それは人生とまったく同じ。それをスケーターたちはみんな理解しているから、互いに優しくリスペクトしあうんだ」

コロナ禍のロックダウンの中、ヒューバーさんの博物館と併設するスケート場兼スケート用具ショップは約1年間の間、営業できなかった。やっと最近営業を再開したばかりだ。
 
この先、何歳になっても板に乗って滑り続けるつもりだとヒューバーさんは言う。「転んで満身創痍になっても、すぐ立ち上がってまた滑っていく。カリフォルニアで育った自分は、そういう生き方しか知らないから」。