実体のない「不安」が恐怖よりもずっと厄介な理由

そもそも、評価は結果についてのもので、人格についてのものではありません。しかし、自分の価値が低く評価されるくらいなら、仕事の課題から逃れようと考えてしまうのです。最初からよい結果は出せません。一度課題から逃げることを覚えたら、以後も逃げるようになります。その際、不安になれば、不安を課題から逃げるための口実にするようになります。人生の困難から逃げ出す見方が「不安がつけ加わることによって強化され、たしかなものになる」というのは、こういう意味です。

対人関係を回避するための不安

対人関係も同様に困難な課題です。なぜなら、人と関われば何らかの仕方で摩擦が生じるからです。人と関われば裏切られたり、憎まれたり、傷つくような経験を避けることはできません。自分が傷つくのでなくても、何気なく発した言葉が相手をひどく怒らせるということもあるでしょう。人と関わって嫌な思いをしたりトラブルに巻き込まれたりするくらいなら、最初から対人関係を避けようとする人がいても不思議ではありません。

アドラーは「あらゆる悩みは対人関係の悩みである」といっています。カウンセリングのテーマはすべて対人関係であるといっていいくらいです。対人関係の課題を回避しようと思う時には、そうするための理由が必要です。もちろん、何の理由もなく課題を回避することはできますが、理由があった方がまわりの人も本人も納得できます。

例えば、学校に行きたくないと思ったらただ休めばいいのですが、親も教師も理由もないのに休むことを許しません。必ず、「なぜ休むのか?」とたずねます。自分でも理由がなければ休んではいけないと考える子どもは多いでしょう。そこで、子どもは「お腹が痛い」とか「頭が痛い」と親にいいます。もし本当に痛みがあれば、親は「頭が痛いくらいで学校を休んではいけない」とはいえないでしょう。子どもはそのことを知っているので、親にたずねられる前から「今日は頭が痛いから学校に行かない」というのです。

これは自分への言い訳になります。「本当は学校に行きたいのに、こんな痛みがあるから行きたくても行けない」。そう思えたら、身体に痛みがあっても心は痛みません。親は子どもを学校に行かせたいと思っていても、学校に連絡をして子どもを休ませます。教師は当然理由をたずねるでしょう。この時、理由がないと親も困ります。腹痛や頭痛があるので休ませるといえば、教師は納得します。晴れて休めることになった途端、子どもの症状はなくなるか軽減します。

一度逃げると不安は強化される

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アドラーは、「Aだから(あるいは、Aでないので)Bできない」という論理を日常生活の中で多用することを「劣等コンプレックス」といいます。このAとして自分も他人もそんな理由があれば仕方ないと思うような理由を持ち出すのです。

今問題にしている不安もAとして持ち出されます。不安は人生の課題から逃れるための理由になるのです。ただし、腹痛や頭痛ほどには理解されないかもしれません。「今日は不安なので学校に行かない」と子どもがいっても、多くの親は理解できないでしょう。

不安は基本的には未来についての感情です。アドラーは、一度、仕事や対人関係で「人生の困難」を経験したので、また同じことを経験するのではないかと思って不安になるとは考えません。あれやこれやの出来事を経験したことが不安になる原因だとは考えないということです。アドラーは不安について次のように考えています。先に引いた言葉をもう一度引用します。

「人がひとたび人生の困難から逃げ出す見方を獲得すれば、この見方は不安がつけ加わることによって強化され、たしかなものになる」

「人生の困難から逃げ出す」というのは人生の課題が困難だと考えてそこから逃げ出すということです。人生の困難から逃げ出そうと考えている人は不安になることでその決心を「強化」する。つまり不安がなくても、もともと人生の課題から逃げると決めているのですが、こんなに不安であれば逃げ出すしかないと思えるのです。人生の困難から逃げ出そうと考えることが先にあって、これを正当化するために不安という感情を使うということです。

仕事も対人関係もたしかに「困難」な人生の課題ですが、だからといって、誰もがそこから「逃げ出す」わけではありませんし、実際、逃げ出すことはできません。しかし、対人関係で何か困難な経験をした人はまた同じことを経験したくないと思って対人関係を避けようとします。そして、そのような人が対人関係を避ける理由として「不安」を付け加えるのです。