『ネオ・ヒューマン』では、最終的にAIと融合した著者のピーター・スコット-モーガンと、恋人フランシスだけが登場する、VRで作られた楽園の世界が描かれています。そして、そこに生きていることは、幸せなのだろうかという論点があります。
VRの世界では、その登場人物を自分で決めることができてしまいます。そして、AIで作られたパーソナリティには、「今の瞬間」しかなく、成長しません。時間の認識がありませんから、今日も、明日も、100年後も同じということになります。
その成長のない瞬間にとどまって、好きな人と毎日ランチを続けているのが幸せなのか、何の変化も成長もないのは不幸ではないか。そう感じる人もいるでしょう。
しかしここには、私たちが「成長しなければならない」という強迫観念、神話に囚われているのではないか、という問題があります。
2000年代は、終身雇用が崩れ、新自由主義的なジャングルのなかで成長しなければならないという時代でした。しかし、昭和の時代は、その体制に批判はあっても、普通の人が平凡に暮らして、一戸建てを建てることができたわけです。
そして、ああいう時代をもう一度つくったほうがいいのではないかという議論は、常にあります。無理して成長しなくても、平穏でいられる社会になってほしい、ゴールはなくても今を維持できればいい、低成長でも持続できればいいという感覚もあるわけです。
若い世代の起業家にも、そのような感覚の人が増えています。かつては上場して世界一を目指すというのが一般的でしたが、今は無理して成長するよりは、価値を共有できる仲間と一緒にやっていきたいという感覚なのです。それは決して悪いことではありません。
VRの世界観は、こういった価値観に回帰しつつある現状と相性がいいのではないかと思います。いまこの瞬間が持続して、閉じた時間のなかで生きてゆけることが幸せなのだ、と。『ネオ・ヒューマン』のラストシーンは、その象徴かもしれません。
最近「自由」という意味も変化してきたと感じます。かつての「自由」は「解放」でした。しかしいまは、「自由」であることが逆に「抑圧」になっています。