「高齢者ドライバー問題」が解決しない根本理由

先の福井県福井市内で行われた高度運転支援システムの体験試乗会より、緊急自動ブレーキ体験の様子(筆者撮影)

市町村の現場でどのような議論がなされているかというと、多くの場合は交通事業者、自治体、大学などの教育機関でつくる地域公共交通会議で議論されているが、高齢ドライバー問題を定常的に重要課題として扱うケースは決して多くない印象だ。

本来ならば、これから増加することが確実な高齢の免許保有者と地域とのつながりについて、今こそ地域公共交通会議で活発な議論がされるべき時期である。

本連載で先に掲載した「交通危機の救世主になる「グリスロ」とは何か?」の中でも指摘したように、国土交通省 総合政策局 交通政策課は2021年5月28日、2025年までの第2次交通政策基本計画を発表し、その中で「交通が直面する『危機』」を十分に認識し、『それを乗り越える決意』が必要だ」と強調している。

それでも、地域公共交通会議の議論の中では、前述の高齢ドライバーに対する運転免許制度についての法整備の実情や、高度な運転支援システムの現状把握などを踏まえた総括的な議論に及ぶケースは少ない。そもそも、地域公共交通会議が、そうした総括的な議論を行う仕組みになっていないからだ。

また、本年度を含めて3年度の間、国はMaaS(モビリティ・アズ・ア・サービス)という括りで、公共交通再編の最新化を模索してきているが、その中で高齢ドライバーの実質的な解決策を議論するような政策の“たてつけ”にはなっていない。

何を軸足に議論するべきか?

こうして見てきたように、「高齢ドライバーの運転技量にともなうこと」と「高齢者を含む社会全体の交通のあり方」という両面をバランス良く議論するすることが、高齢ドライバー問題の解決を目指すための基盤となる。

少し視点を変えると、国や自動車メーカー、大学などが使う「人が乗り物で移動すること」に対する分類の仕方が、社会の実態にマッチしていないともいえる。でが、どのように分類するべきだろうか。私見として例を挙げてみたい。

例えば、「自ら運転して移動すること」と「自らが運転せずに移動すること」という分類。ここでのキーワードは、自由度と我慢だ。

自由度として考えると、新車購入(現金、ローン、サブスクリプション)、中古車購入(同)、レンタカー、カーシェアリングなど、運転者にとって運転するための手段はさまざまあるが、「好きな時間に、好きなところに行く」という自由度の観点からも、こうした各種手段は、運転のための選択肢として同じテーブルにあると思う。

視覚や下半身の動きなどに制限を加え、高齢ドライバーの体感を疑似体験する筆者(撮影:マツダ関係者)

自動運転では、国は「個人所有のオーナーカー」と「公共交通機関のサービスカー」の2分類化をしており、この場合はカーシェアもサービスカーの一部になるかもしれない。だが、運転者の意思で自由に移動するという観点では、カーシェアもオーナーカーだといえるのではないだろうか。

また、地方部では「近所の人とは同じ乗り物に乗りたくない」とか「毎日、混雑するバスや電車に乗る都市型生活は、移動中の個人空間が確保できないので憧れない」といった声をよく聞く。つまり、「移動中に他人との関わりで我慢したくない」という意味での、“我慢”の反語としての“自由度”だ。

地方ほど気になる“世間体”も考慮が必要

もう1つ重要な移動の分類がある。それは“世間体”だ。

クルマは、今も昔もステータスシンボルという意味合いがある。実際、自動車メーカーも商品開発の際、ターゲットユーザーで個人年収を想定する場合が多い。日本固有の文化であるミニバンについても、トヨタ「アルファード」「ヴェルファイア」を頂点とするミニバン・ヒエラルキーが存在し、ご近所に対する世間体を気にする人も少なくない。

軽自動車は、クルマ全体のヒエラルキーの中では低い位置だと思われがちだが、複数台を所有する人が、近所の買い物などに便利な“シティコミューター”として使うケースも増えている。

そのほか、高齢者がタクシーを多用すると「あのうちは贅沢だ、といわれかねない」という指摘も各地でよく聞く話だ。また、高齢者の1人暮らしでタクシーを呼ぶと「あそこの息子さんや娘さんは親に対して冷たい」といったような、世間体に関するさまざまな話が出てくる。

こうした移動に対する自由度、我慢、そして世間体といった文脈は当然、地域差や個人差があるが、一般論では高齢者は若い世代と比べて強まるように思う。高齢ドライバー問題の解決に向けては、さまざまな視点から社会の実態を直視することが重要だ。