これまで寺脇康文、及川光博、成宮寛貴、そして反町隆史の4人が右京の相棒役を演じてきた。寺脇康文演じる亀山薫が熱血漢なら、及川光博演じる神戸尊はクールといったように、それぞれ個性が異なる。そのうえで、最初は反発していたのが行動を共にするうちに、相棒たちは次第に右京を理解するようになっていく。
また、シリーズを重ねるなかで、2人を取り巻く捜査一課刑事の伊丹憲一や鑑識の米沢守など個性豊かな脇役も“キャラ立ち”し、人気を集めるようになったのも見逃せない。
もう1つ、『相棒』の長寿シリーズ化の理由として、複数の脚本家による分担制も挙げておきたい。
日本では、連続ドラマの脚本家は1人で務めることが多い。長丁場のNHK連続テレビ小説や大河ドラマであってもそうだ。一方、『相棒』では同じシーズンの脚本を複数で担当する。たとえば、season 1では12話を3人の脚本家で分担した。最新のseason 19では、20話を9人で分担している。
脚本家はそれぞれ得意分野が異なるので、自然に『相棒』の話も多彩なものになる。本格的な推理ものもあれば、時事問題や社会の矛盾を扱った社会派の回、人情の機微が描かれた切ない回もある。また時には、便器にはまって動けなくなり、餓死する被害者が登場するといった、ちょっとコミカルな回もある。こうした作風の幅の広さが、ほかにはない『相棒』の魅力になっている。
さて、ここまで作品のなかの主人公、俳優、ストーリー、脚本などの点から長寿シリーズの条件についてみてきた。最後に、時代とのかかわりにもふれておこう。長寿作品になるには、時代の追い風も必要と思えるからだ。
『男はつらいよ』が長寿シリーズとなった背景には、昭和の高度経済成長期における人々の願望もあっただろう。当時の日本人は、敗戦後の復興という目標に向けて一丸となって働いた。その結果、奇跡とも呼ばれる経済成長を成し遂げ、生活も豊かになった。
だが勤勉に働くことは、多くの人にとって会社など組織の歯車になることでもあった。そこに生まれる自由への憧れが、気ままに生きる寅さんへの羨望につながったのではないだろうか。同じく高度経済成長期にヒットした映画「無責任シリーズ」で植木等が演じた無責任男の人気にも、似たところがあるだろう。
それに対し、平成、とくに2000年代以降の世の中では、昭和のような社会の一体感は薄れ、格差の広がりが感じられるようになった。それは、個人の能力がより問われる社会である。そこには自由はあるが、同時に生きづらさが伴う。
『相棒』の杉下右京は、頭脳明晰で博覧強記。有能の極みのような人物だ。しかし、自らの正義を徹底的に貫こうとするため、組織のなかで出世はできない。本人はそんなことなどどこ吹く風に見えるが、生きるのが不器用な人間であることは間違いない。そこには、いまの私たちが抱える生きづらさに通じるものがあるように思える。その意味で杉下右京は、いまの時代ならではのヒーローだろう。
映画にせよテレビにせよ、長寿シリーズになるには、まず作品そのものの魅力が不可欠だ。だがそれだけでなく、時代の風を感じ取り、それを主人公や物語に反映させる嗅覚も必要であるに違いない。