これをマネジメント教育という視点で見れば、初めからどこかに答えがあることが分かっていてビジネスのテクニックを学ぶような旧来型の教育は、もはや時代遅れだということです。
こうした潮流は、「フィナンシャル・タイムズ」に掲載された『美術大学のMBAが創造的イノベーションを加速する』(“The art school MBA that promotes creative innovation” 2016/11/13)という記事でも、いわゆる伝統的なビジネススクールへの出願数が減少傾向にある一方で、アートスクールや美術系大学によるエグゼクティブトレーニングに多くのグローバル企業が幹部を送り込んでいる実態として報じられています。
経営コンサルタントの山口周さんは、ベストセラーとなった『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社)の中で、こうしたトレンドを、
「グローバル企業の幹部候補、つまり世界で最も難易度の高い問題の解決を担うことを期待されている人々は、これまでの論理的・理性的スキルに加えて、直感的・感性的スキルの獲得を期待され、またその期待に応えるように、各地の先鋭的教育機関もプログラムの内容を進化させている」
と語っています。
つまり、グローバル企業が著名なアートスクールに幹部候補を送り込むのは、これまでのような「分析」「論理」「理性」に軸足をおいた経営、いわば「サイエンス重視の意思決定」では、今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできないという認識が、その背景にあるというのです。
ユダヤ人哲学者のハンナ・アーレントは、ナチスドイツのアイヒマン裁判を傍聴して、『エルサレムのアイヒマン:悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)を発表し、悪とはシステムを無批判に受け入れることだと看破しました。
そして、無思想性と悪との「奇妙な」関係について「陳腐」という言葉を用いて、システムを無批判に受け入れる「陳腐」という悪は、誰が犯すことになってもおかしくないのだと警鐘を鳴らしています。
われわれはこの不完全な世界というシステムに常に疑いの目を差し向け、より良い世界や社会の実現のために、なにを変えるべきかを考えることが求められています。
特に、社会的な影響力を持つビジネスリーダーにこそ、そうした姿勢が求められるのですが、その時に必要なのが、プラトン以来の哲学的主題である「真・善・美」の感覚であり、クリステンセン流に言えば、「人生を評価する自分なりのモノサシ」なのです。
同時に、ビジネスリーダーというのは、往々にして社会や組織におけるエリートだという現実もあります。
エリートというのは、自分が所属しているシステムに最適化することで多くの便益を受けている存在であり、システムを改変するインセンティブを持ち合わせていません。
しかし、山口さんの言葉を借りれば、「システムの内部にいて、これに最適化しながらも、システムそのものへの懐疑は失わない。そして、システムの有り様に対して発言力や影響力を発揮できるだけの権力を獲得するためにしたたかに動き回りながら、理想的な社会の実現に向けて、システムの改変を試みる」ことが求められているのです。
そして、そのためには、システムを懐疑的に批判する方法論としての哲学や思想が欠かせないということなのです。
小説家のオスカー・ワイルドは、いわれのない罪で訴えられた裁判の中で、相手方から「ドブさらいめ!」と罵られ、
「俺たちはみんなドブの中を這っている。しかし、そこから星を見上げている奴だっているんだ」