料理の素材と同じで、アイデアも鮮度が大事だ。思いついたら、フレッシュなうちに手を動かして調理を始めたほうがいい。「この葡萄はなぜすっぱいのか」と食べもしないで理屈を立てている時間があったら、はしごを持ってくるでも何でもして、とにかく葡萄を取ってしまったほうがいい。
そういうスピード感の重要性を思い知らされるエピソードがある。2014年に発表された「GAN」というAIアルゴリズムの研究をめぐる話だ。
少し前から、「この世に存在しない人間の顔写真」をネット上でよく見かけるようになった。存在しないのだから「写真」と呼ぶべきではないかもしれないが、どう見ても実在するようにしか思えない不思議な画像だ。それを作るのに使われているのが「GAN」(Generative Adversarial Networks=敵対的生成ネットワーク)である。
複雑そうな名前だが、アイデア自体はシンプルだ。用意するのは、2つの相反するニューラルネットワークだ。1つは、何かを「本物」っぽく作ろうとするニューラルネットワーク。もう1つは、それが作ったものの「うそ」を見抜こうとするニューラルネットワーク。いわば泥棒と警官のような関係だと思えばいいだろう。
一方が本物と見分けのつかない精巧な偽札を懸命に作ろうとするのに対して、もう一方は偽札と本物の違いを懸命に見つけようとする。それを戦わせるから「敵対的」という。戦いのレベルが上がるにしたがって、「偽物」はどんどん「本物」に近づいていく。そうやって作ったのが、「この世に存在しないけど超リアルな人間の顔」だ。
これを考案したのは、イアン・J・グッドフェローという若き天才だった。グッドフェローは仲間と一緒に夕食をとりながら話をしているうちに、このアイデアをひらめいたという。そして食事を終えると、すぐに思いついたばかりのアイデアを試してみた。まさに、見る前に跳んだわけだ。
そこでなかなかいい結果が出たので、グッドフェローはその翌日にすぐ論文を書いて発表した。
もちろん、翌日に書いた最初の論文はまだ不十分なものだ。そこで完璧にシステムが完成したわけではない。敵対的生成ネットワークが機能することは証明されたが、欠陥もあった。でも、こういうインパクトのある論文は研究者コミュニティーの中で一気にバズる(拡散する)ので、皆がいろいろな実験を始める。それによって問題点が次々と解決され、GANはあっという間に使えるネットワークとして普及していった。
この話だけ聞くと、「やっぱり天才にはかなわない」と思う人もいるだろう。しかし想像するに、いくら天才とはいえ、グッドフェローがいつもこのやり方で成功を収めているはずはない。同じように何かを思いつき、速攻で実験してみたものの、完全に空振りに終わったという経験をきっと何度もしていることだろう。そうやって何度も打席に立っているから、GANのようなホームラン級の成功が飛び出すのだと思う。
「思いついたらとにかく手を動かす」のは、アイデアを形にするうえでそれぐらい大きな比重を占めていると私は思う。
試行錯誤は、はたから見れば地道な作業だろう。でも、地道に手を動かすことによって、さらに別の妄想が湧いてくることもある。
だから私は、何度も失敗を重ねながら手を動かす時間は「神様との対話」をしているのだと思っている。天使のようなひらめきは、腕を組んで考え込んでいてもやってこない。手を動かしながら、神様に向かって「こうですか? これじゃダメですか? やっぱり違います?」などと問いかけ続けると、いつか神様が「正解はこれじゃ」とひらめきを与えてくれる。そんなイメージだ。