全国には937万人の障がいのある方が暮らしているが、中でも特に苛酷な状態に置かれているのが、全国に32万人いる視覚障がい者である。
民間企業に就労している視覚障がい者は、1万9000人。視覚障がい者全体のわずか6%にすぎない。かつては、鍼治療やあんまやお灸で生計をたてる視覚障がい者も多かったが、この分野にも健常者が押し寄せ、働く場はどんどん狭くなっている。
こうした現状を見かねて立ち上がったのが、静岡県浜松市にある事業所、NPO法人の六星・ウイズである。六星・ウイズは、浜松市内に「ウイズ半田」と「ウイズ蜆塚」の2カ所の拠点をもち、現在では49名の視覚障がい者と、13名の職員が働いている、わが国では稀有な視覚障がい者の就労支援施設となっている。
現在の理事長である斯波千秋氏の父である穏(やすし)氏は、尋常高等小学校を卒業後15歳で日本でも有数の自動車修理工場「アート商会」に丁稚小僧として入った。そこで一緒になったのが、ホンダを創業した本田宗一郎氏だった。
戦後、本田宗一郎氏はアート商会から独立し、故郷の浜松に会社を立ち上げる。その創業メンバーとして呼ばれた穏氏がある時、本田宗一郎と仕事で泊まった旅館であんまさんを呼んだ。
宗一郎氏と穏氏が体をもまれながら話していると、あんまさんが、「私たちは竹の長い棒を杖代わりにして歩いているけれど、折りたためないので邪魔になる。もっと小さくできる杖はできないものだろうか」と言う。
2人は翌朝、竹の釣り竿を買ってきて、折りたためる杖をつくった。それを翌日あんまさんに渡すと、涙を流して感謝されたという。
その後、本田宗一郎氏は、国産の二輪車や四輪車を開発して世界に打って出る道をまっしぐらに進むが、あの時のあんまさんのうれし涙が忘れられなかった穏氏は1954年、「盲人福祉研究会」という会社を立ち上げる。
スタート時の主な仕事は、折りたたみができる杖を商品化して販売することで、何度も試作をくり返し、改良した木製の折り畳み式の杖の商品化に成功する。
この商品は口コミでたちまち広がり、当時の厚生大臣から「愛の杖」という名称ももらうことができた。欧米では視覚障がい者が持つ杖は白く塗られているのが一般的だったため、日本でも白杖が主流となり、「愛の杖」という商標ブランドで、「盲人福祉研究会」の白杖が全国に普及していった。
しかし海外から大量生産で安価な杖が輸入されるようになり、会社の業績はじり貧になってくる。そんな折に穏氏が72歳で急死、白羽の矢が立ったのが、穏氏の四男である千秋氏だった。
斯波千秋氏は1972年、お父さんの穏氏のあとを継いで「盲人福祉研究会」に入社、目が見えない人たちが使う用具を開発しながら、市場を広げるため全国を営業して回った。その過程でたくさんの視覚障がい者たちと会った千秋氏にとっては、驚くことばかりだった。
とにかく、ほとんどの人が仕事に就いていない。やりたくても、やらせてもらえるところがない。中途失明した方たちは家から一歩も外に出ることができず、一生、座敷牢のようなところですごす人もいた。