コロナ騒動で激売れする小説「ペスト」の中身

それから間もなく、停車場で、彼女を寝台車に乗り込ませた。彼女は車室を見まわした。

「たいした料金なんでしょう、あたしたちの身分じゃ。そうじゃない?」

「必要なことだもの」と、リウーはいった。

「いったいどういうんですの、今度の鼠騒ぎは」

「わからない。まったく奇妙だ。だが、そのうち済んじまうだろう」

それから、彼はひどく口早に、彼女に向って、どうか許してくれるように、ちゃんと気をつけてやるべきだったのに、ずいぶんほったらかしにしていてと、いった。彼女は、なんにもいわないでというように、首を振っていた。しかし、彼は付け加えた――

「何もかもよくなるよ、今度帰って来たら。お互いにまたもう一度やり直すさ」

「ほんとよ」と、目を輝かせながら彼女はいった。「やり直しましょうね」

それから間もなく、彼女は彼に背を向け、窓ガラスの外を眺めていた。ホームの上では、人々が急ぎ合い、ぶつかり合っていた。機関車のシュッシュッという音が彼らのところまで聞えてきた。彼は妻の呼び名を呼んだが、振り向いたのを見ると、その顔は涙におおわれていた。

「だめだなあ」と、やさしく彼はいった。

涙の陰から、やや引きつったように、またほほ笑みが浮んできた。彼女は大きく息をついた。

「行っておいで。万事うまく行くよ」

彼は彼女を抱きしめ、そして今はもうホームに立って、窓ガラスの向う側に、ただ彼女のほほ笑みを見るばかりであった。

「くれぐれも体に気をつけてね」と、彼はいった。

しかし、彼女には、それは聞えなかった。

死んだ鼠の箱を小脇に抱えた駅員

出口に近く、駅のホームで、リウーは予審判事のオトン氏が小さい男の子の手を引いているのにぶつかった。医師は、彼に旅行に出かけるのかと尋ねた。長身黒髪のオトン氏は、半ばはかつて社交界の人士と呼ばれたものに似、半ばは葬儀人夫に似た風采であったが、愛想のいい、しかしぶっきらぼうな声で、こう答えた。

「家内を待ってるんです。私の実家にご機嫌うかがいに行ってましたので」

機関車の汽笛が鳴った。

「鼠が……」と、判事がいった。

リウーは汽車の方角へちょっと身を動かしたが、また出口のほうへ向き直った。

「ええ」と、彼はいった。「なに、なんでもありませんよ」

この瞬間について記憶に残ったことといえば、死んだ鼠のいっぱい入った箱を小脇にかかえた1人の駅員が通ったということだけであった。

17時に、医師がまた往診に出かけようとすると、階段の途中で、がっしりと彫りの深い顔に濃い眉毛を一文字に引いた、姿全体に重々しさのある、まだ若い男とすれ違った。その男には、時おり、このアパートの最上階に住んでいるイスパニア人の舞踊師たちのところで出会ったことがあった。

ジャン・タルーは、しきりにたばこをふかしながら、足もとの階段の上で死にかけている1匹の鼠の最後の痙攣を眺めていた。彼は医師のほうへ、その灰色の眼の、落ち着いた、やや見すえるような視線をあげ、挨拶の言葉をいい、そしてこの鼠どもの出現は興味あることがらだと付け加えた。

「ええ」と、リウーはいった。「しかし、こうなると、もう小うるさくなってきますよ」

「ある意味ではね。ある意味でだけですよ。つまり、こんなことは見たことがないっていうだけのことです。しかし、僕はこれを興味あること、まったく、実際に興味あることだと思ってるんです」

タルーは髪の毛をうしろにかきあげ、今はもう動かなくなった鼠を再びながめ、それからリウーにほほ笑みかけた――

「しかし、要するにですな、こいつは何よりも門番の問題というわけです」

ちょうどその門番を医師はアパートの前で見かけたが、入口のそばの壁にもたれて、いつもは血色のいいあから顔に、ちょっとぐったりしたような表情を浮べていた。