米側の反応は日本政府にとっては予想外に大きなものであった。米財団の関係者が、鳩山の東アジア共同体という考えが米国の利益と相いれないと示唆したものの、岡田克也外相は、東アジア共同体構想に触れて、そこには米国は含まれないと米側を更に刺激した。
鳩山首相もよりによって北京での日中韓首脳会談において、これまでの日本は米国に依存しすぎていたと述べ、「新しい日本は東アジア共同体を構想していきたい」と繰り返した。先の論考は、野党時代のもので、一端首相になれば、自重するだろうと考えた米側の期待は裏切られたのである。
早速米側は、駐日米国大使が不快感を表明するだけではなく、キャンベル国務次官補が来日して警告した。日本政府は、予想を超えた米側の反応の大きさに外務省を中心として釈明に追われた。
ただ、日本人にとってこれらの鳩山由紀夫氏の東アジア共同体論は、深く練られていない鳩山個人の発想によるものであり、親米路線を変えるといった深い意味はないことは明らかに思えた。また、歴史問題を抱える東アジア諸国が容易に連携するというのはありえないという現状もあった。バブル崩壊後の国力低下で自信を失った日本国民にとって、鳩山氏の論に米国がなぜそれほど大きく反応したかについては理解に苦しむところであった。
ではなぜそのような大きな反応を引き起こしたのであろうか。今回の衆議院議員選挙の結果について米メディアをして、「日本は不確実性に突入した」とまで言わしめるものとの共通点を感じる。
そこには、日本人を完全には信頼できないのではないかという気持ちが見え隠れする。日本人は理解の難しい存在で、無口でニコニコして何もしないが、いきなり刺す不気味な存在、未知なる他者という昔から存在する見方が続いていることが根底にあるとは言えないだろうか。日本人を完全に信頼できないから、日本の政治に動きがあると、不安になる。今年7月に、英国で政権交代があったときには、そのような不安は見られない。
長年政権党であった自民党関係者などとは、米国と組んでいた方がどれだけよいかという共通理解があるが、野党とは日ごろから米側とあまり接点がないため、たまに権力を持つと呑気に突拍子もないことをやりかねない。それが巡り巡ってヒョウタンから駒のようなことにならないか、米側はすごく心配しているというのがこのような反応の背景にあるように見える。
そこには日本人はいつか今までの支配を恨みに思って仕返しして来かねないという考え、すなわち、米国の日本に対する黄禍論的な見方が今でも生きているということがあると思える。今回の衆議院議員選挙の結果に対する過剰とも見える反応も、09年当時と同じ流れで解釈できるのではないだろうか。
また、石破首相のアジア版NATOの発言も米側の反応に影響を与えた可能性がある。米国の核戦力の傘のもとで安全が守られている日本が主導してのアジア版NATOに現実性はない。しかもこれは米国に対して矛をむけているものではない。にもかかわらず、米国抜きで日本が安全保障を構想することに対する米側の正直な反応としては不快感しかなかったのではないだろうか。
米大統領選挙は最終局面を迎えつつある。両候補は支持率で拮抗し、選挙の行方は見えない。多くの有権者が候補者に満足しているわけではなく、消去法的に投票先を選んでいる。
庶民は物価高に苦しめられ、生活がよくなるような展望はない。常日頃は鷹揚な米国人も自国の立場が不安定になると、そうゆったりとも構えて居られず、疑心暗鬼になりがちである。
こういった状況の中で、米国が日本に求めているのは何だろうか。共に民主主義という価値観を共有し、政権が交代しようが揺ぎ無く同じ民主主義に対して良識ある世界市民として米国人と共に肩を並べて貢献する姿ではないだろうか。
日本がいつかは裏切るのではないかという黄禍論的まなざしから解放されることのない米国が、民主主義を支持する良識あるパートナーであることを日本に対して求めるのは無体といえなくもない。しかし、日本が米国と共に歩む以上はそのような姿を見せ続けて信頼を得るしか道はないのかもしれない。